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キングダム第800話考察・三つの柱

前回の記事から少し時間が経ってしまいました。

今回もネタバレご注意です。

「”三つの柱”を立てることが出来れば 秦は再び中華統一の道に戻れるやも知れません」(昌平君)

第800話より

趙に大敗し、打ち砕かれたように見えた秦の中華統一。もはや万策尽きたのか…と全員が思っていたところで、昌平君が考えに考え抜いた策。それは3つあるようで、そのうちの1つが明かされました。

恐らく、この戸籍作りというのは徴兵が目的なのでしょう。ではあと2つは一体何なのでしょうか…始皇帝の治世で主だった政策を挙げるとすれば、以下の通りです。

・郡県制の採用
・貨幣、度量衡、文字の統一
・車道幅の統一

ただ、これらは必ずしも中華統一前に実施したものでは無さそうなので、3つのうちあとの2つについては分かりませんでした。そもそも、戸籍については始皇帝の時代に制度化したものではないので、もともとあった戸籍制度をブラッシュアップした…というストーリーにするのかな、と考えたりもしています。

史書においてはっきり「戸籍」という言葉が登場したのは、史記巻六・秦始皇本紀の巻末に付された秦の年代記「秦記」に、秦の献公十年 (紀元前375年)「戸籍をつくり隣保組織をととのえる」と伝えているのが初見だと思います。

秦の献公十年 (紀元前375年)
「戸籍を爲り、相伍せしむ」

秦始皇本紀より


ただ、戸籍自体は先秦時代から存在していたらしく、周の武王の治世(紀元前11世紀)にも戸籍をベースにして人口統計を取っていたようです。なので、やはり昌平君が考えた「戸籍作り」というのは、もともと存在した戸籍制度を進化させる秘策なのかな、と考えるのが自然ですね。

===TEA BREAK…===

さて、秦の惨状にヤキモキしている方も多いと思いますが、ストーリー的にはこの昌平君の策をきっかけに、秦の大進撃がスタートすると予想します。

…と言うのも、年表で見ていくとここから秦が「ほぼ負け無し」で統一まで突き進むからです。歴史の上では、秦が「番吾の戦い」で趙に大敗したのが紀元前232年なので、本誌キングダムは現在紀元前232年または紀元前231年あたりだと思います。そこから約10年が、以下の通り激動なのです。

<ここから紀元前223年までの年表>

前231年(始皇16年) 魏、秦に領地を献じる
前230年(始皇17年) 内史騰、韓を攻め、韓王安を捕虜とし韓は滅亡する
前229年(始皇18年) 趙を攻め、代を伐つ
前228年(始皇19年) 王翦・羌瘣が趙を平定。趙王を捕らえる。母太后没。
前227年(始皇20年) 燕太子丹、秦王暗殺に失敗
同年 王翦と辛勝を将軍とし、燕軍を易水で破る
前226年(始皇21年) 王翦、燕軍を破る 燕太子丹没
前225年(始皇22年) 王賁、魏を攻め、魏が降伏する
前224年(始皇23年) 王翦、楚を攻める
前223年(始皇24年) 王翦・蒙武、楚を破り楚が滅亡する


「ほぼ負け無し」と前述しましたが、実は楚に大敗します。あえてそれは伏せておきますが、楚を滅亡させた後も快進撃は止まらず、斉を滅亡させ中華統一に至ります。が、クライマックスは年表に記載した紀元前223年になるでしょうね。ここのドラマティックな展開は…きっと涙なくしては見られないでしょう。

今回もお読み頂きありがとうございました。他の記事は下記からお読みいただけます。


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