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星降る夜に、秦の始皇帝を想う

昨日(2020年8月12日)、車で2時間ほどかけて移動し、ペルセウス流星群を見に行きました。星の見え方は違えど、人類が誕生してから同じように空を見上げてきたのか…と思うと、とてもロマンチックでした。本当にたくさんの流星が見れました。

さてさて、秦の始皇帝こと嬴政も、実は彗星図というものを持っていました。軍事に政治に、恐らくこの彗星図をもとに判断したこともあったでしょう。

彗星図

1973年湖南省長沙馬王堆墓出土。多種類の形状の彗星が描かれている。奏漢時代に中国の大文字はさらにめざましい進歩をとげた。 長沙の馬王堆漢墓から出土した「帛書」(絹地に書いた文)には,紀元前246年から前177年にかけて70年間の五惑星,すなわち,木狂,金星,水星,火星,土星の位置が記録されている。また,さまざまに異なる形状の彗星図も出上している。太陽黒点に関する記録も西欧よりはるかに早く,『漢書』には河平元年(紀元前28年)3月「黒気有り 大きさ銭の如く, 日の中央に居る」と記されている。『漢書』にはまた前134年,二十八宿のひとつ,房宿に客星が現れたことが記録されているが,これは世界的にも記録にとどめられた新星である。

出所:「中国古代科学技術展覧 中国科学館」

なんと惑星まで記録されていたという、驚くべき文明。私達が想像する以上に、古代中国は先進的なサイエンスを持っていた可能性があります。

さらに、嬴政は実際に秦の都市作りにおいて、天体そのものを再現したらしいのです。紀元前ですよ…とても信じられないというか、空も飛べない(とされている)時代に、どうやって再現したのでしょう。

そもそも始皇帝という字は、「皇」=煌々と輝くという意味、「帝」=北極星という意味、ここから究極の権威となることを示したようです。では実際に秦の都を見てみましょう。

星座

この星座の位置は、当時の10月の星座の位置とぴったり重なっています。10月というのは、秦では1年の始まりの月でした。

咸陽宮は、ペガサス座の位置と重なりました。中国では営室と呼ばれ、「宮殿」を意味する星です。

星座咸陽宮ペガサス座

渭水を渡る橋は、カシオペア座と重なりました。中国では「閣道」と呼ばれ、天の川にかけられた橋を意味しました。

星座カシオペア座

極廟の位置は、当時の北極星の位置に重なっています。

星座極廟北極星

始皇帝が、天の世界を再現した秦の都。その中心を流れる渭水は天の川を表していました。さらに驚くべきは、宮殿などの建築物までもが、夜空を彩る星ひとつひとつと重ねられていることです。

北極星の位置にある極廟は、後に始皇帝自身を祀る始皇廟になりました。

私たちは、先人たちの文明を「遅れている」と見下しがちですが、果たしてそう断言して良いのでしょうか。今の価値観、今の常識では絶対に見えないものが見えていたと思います。ただ皮肉なことに、秦はすぐに滅ぼされてしまいました。これも、生まれては消える儚い星の瞬きのようなものなのでしょうか。

真っ暗闇の中、流れる星たちを眺めながら、そんな想いに耽った8月の夜でした。

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