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養蚕から分かる邪馬台国の場所

先月、養蚕技術について少し記事を書きました。

本日は、養蚕技術がもたらした絹について少し深堀りしてみたいと思います。

秦始皇帝の時代に日本に伝わった養蚕

弥生前期末以前のある時期に、華中方面の養蚕が九州北部へ導入されたものとみられ(中略)、 本種蚕の繭形の特徴をなす俵型のル ーツが長江流域にあるとする吉武成美氏の説によって補強される。

「シルクの考古学」布目順郎・著
図4

つまり、布目順郎氏は「養蚕は弥生前期末以前のある時期に、華中から九州北部にもたらされた」と主張しており(図4)、これは私が立てた仮説と完全に一致する。

純国産の絹が見つかった紀元前150年までには、確実に中国から日本に養蚕技術が伝わったと見て良いでしょう。そう考えると、秦の始皇帝(紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日)の時代に伝わったと考えて良さそうです。

「養蚕技術~日本に伝えたのは一体だれだったのか」

ちなみに、布目氏が主張する「弥生前期」とは紀元前5〜紀元前2世紀であり、布目氏と私が考察する時代も一致する。

養蚕から分かる邪馬台国の場所

魏志倭人伝は邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し、その時期は弥生後期に当たる。そのことと、上記の事柄とから、邪馬台国の所在地としては、九州北部とするのが妥当と考える。

「シルクの考古学」布目順郎・著


これも賛同したい。

弥生絹は福岡・佐賀・長崎の3県以外からは出土していない。魏志倭人伝による「邪馬台国」は弥生後期だ。つまり、養蚕・絹織が行われていたと記載されている以上、邪馬台国は九州北部に存在していたことになる。それから時代が進み、近畿・中国・北陸で絹が出土しているが、古墳時代前期なのである。「邪馬台国近畿説」は、この事実を論理的に打ち破る説明が出来ない。

邪馬台国を隠した日本の史書

なぜ邪馬台国の場所が様々な妄想ではっきりしないのか。その理由は日本にある。日本書紀も古事記も、なぜか魏志倭人伝のことを詳しく書かなかった。これは想像になるが、日本を統べることになった当時の時代背景として、他国・他文化による影響を排除し、何かを隠したかったのではないか、と考えている。

拙著「歴史から消された呂不韋の真実」においても詳述したが、「史記」も漢民族の統治上、都合の悪いことを隠蔽・捏造した形跡がある。日本も同様ということだ。勢力争いや血統的不都合(天皇家に関するもの)、殺戮など隠したいことは山程あったであろう。

今回は布目氏の論述だけで考察してみた。養蚕が伝わった九州。時代は秦の時代。つまり、秦の時代には九州に要地があったと想像できる。その要地に、秦から密命を持って養蚕を伝えたはずだ。どこの誰かも分からない人・土地に、当時の持ち出し禁止の技術である養蚕を持っていくはずがない。九州の一部は、羌族の支配下にあったか、またはいくつかの勢力地があったに違いない。

本日もお読み頂きありがとうございました。


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