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養蚕技術~日本に伝えたのは一体誰だったのか

本誌・キングダムでは「勝てない戦はしない」王翦が、まさかの敗戦濃厚な展開になっていますね。「王翦…逃げるにしてもちょっと鈍臭くない?」と思った方も多いと思います。

史実では王翦が李牧に負けた記録は無かったと記憶してますが(秦軍は確かに李牧に大敗しています)、原先生が最も思い入れのあるキャラである李牧の強さを際立たせる効果と、このあとの展開における「王翦の凄まじさ」と「李牧の無念」をドラマチックに展開させる仕掛けがあると思っています。

さて、GWを利用して福島県会津若松市にある蚕養国神社(こがいくにじんじゃ)を訪れました。養蚕技術について少し考えてみたいと思います。

養蚕自体は、5000年~6000年前の中国が起源であり、中国から日本に伝えられたようです。分かりやすく、客観的事実のみ記載してみます。

①福岡県・有田遺跡で日本最古の絹が発見されている(純国産の絹、紀元前150~100年頃)
②北部九州以外からは、この時期の絹は発見されていない。
③秦の時代、養蚕技術は門外不出で国外持ち出し禁止であった。
④秦の時代、中国から日本に渡航した記録としては徐福(徐市)一行しかいない。

養蚕はいつ日本に伝わった?

①~④それぞれについて詳述はしませんが、純国産の絹が見つかった紀元前150年までには、確実に中国から日本に養蚕技術が伝わったと見て良いでしょう。そう考えると、秦の始皇帝(紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日)の時代に伝わったと考えて良さそうです(※)。養蚕の技術を日本に持ち込んだのは、秦氏だと言われています。

養蚕は秦氏が日本に伝えた?

但し時系列で見ると、養蚕技術を日本に伝えたのは「秦氏」ではないということになります。なぜなら、「日本書紀」に『応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を秦氏の祖とする』という記載があるからです。秦の始皇帝の時代に養蚕技術が日本に伝わったとする場合、ざっと400~500年の開きがあります。

「じゃ、養蚕を伝えたのは秦氏ではないのか?」と考えがちですが、「秦氏」とは後世で何らかの理由で権威付けするために名乗った氏姓であって、日本には紀元前から渡来していた始皇帝の血族がいたということになります。ちなみに、「始皇帝の圧政から逃れて日本に行ったのが秦氏」というのも、後世の創作でしょう。

始皇帝の時代に日本に来た人物とは?

史書の記録では、徐福(一行)が渡来しています。日本で徐福が伝説化されていますし、「ただ日本にやって来た」だけでは祀られるほどの人物にはならないと思います。革新的な技術を中国から日本各地に伝えたから神格化されたのでしょう。その技術の1つが養蚕であった可能性はゼロではありません。

また、徐福は突然日本にやって来たわけではなく、徐福以前から日本に定住していた氏族の後裔だったと思ます。それが、羌族姬氏でしょう。羌族姬氏は特に九州エリアで勢力地を獲得していたと思われます。その「ツテ」を使い、養蚕技術を日本に持ち込んだのが徐福だと考えています。

徐福は単なる方士なのか?

秦が門外不出にしてきた養蚕技術。仮に徐福が日本に養蚕技術を伝えたとして、果たして秦の始皇帝は、どこの馬の骨か分からない方士の徐福に日本への持ち出しを許可したのか?という疑問が湧きます。また、羌族姬氏の「ツテ」を使って渡来するわけですから、始皇帝(始皇帝は羌族姬氏であった)の血族にこの重大ミッションを任せたと考えるのが自然です。

この重大ミッションを全うできる当時の傑物、かつ羌族姬氏である人物は誰か…と考えると、どうも「呂氏春秋(紀元前239年)」を編纂した呂不韋しかいないということになります。「呂氏春秋」には養蚕に関して記載があります。その呂不韋は、「史記」において「不自然な死に方」を押し付けられています。

これは余談ですが、呂不韋がどのようにして財を成していたのか…は全くと言って良いほど記録がありません。「貨殖列伝」には記載がなく、「史記・呂不韋列伝第二十五」に、『呂不韋が中国各地を行き来して安く買い取り、高く売り捌く商売をしていた』とのみ記載されているのみです。

このあたりは拙著でたんまり深堀りしましたので、ぜひお手にとってご覧ください。

「歴史から消された呂不韋の真実」


かくして日本各地に伝わった養蚕

養蚕は、日本の史書ではなぜか神話化されています。『殺された保食大神の眉に蚕が生じた』と日本書紀に記載されています。ここをぼかす必要があったのでしょうか?文字のない時代からの口伝(真実)は、日本の統治にとってよほど都合が悪かったのでしょうね。

その保食大神が祀られているのが、会津若松市にある蚕養国神社(こがいくにじんじゃ)です。

住所:〒965-0023 福島県会津若松市蚕養町2−1

蚕養国神社(こがいくにじんじゃ)の御祭神

社伝では、弘仁2年(811年)の創建。『延喜式』神名帳では、この蚕養国神社以外に社名を「蚕養国」とする官社はなく、この社名は当社が唯一のものらしいです。『日本後紀』延暦15年(西暦796年)11月8日に、『伊勢・三河・相模・近江・丹波・但馬等の国の婦女2人ずつを陸奥国に遣わして2年間養蚕技術を教えさせた』という記事が存在しています。

秦氏の一団は、四国の伊予・讃岐、中国の長門・周防・安芸・備前・播磨・摂津を経て畿内に入り、河内から山背(山城)に至って太秦に本拠を構え、さらに北陸の越前・越中や東海の尾張・伊勢・美濃、そして東国の上野・下野から出羽にまで進出したと言われている。

この婦女2人は、秦氏の血族だったのでしょうか。彼女たちも突然、会津の地に遣わされたのでしょうか。

金川寺

少し話が逸れるのですが、実は会津には「金川寺」というお寺があります。ここも訪れたことがあるので、少しこのお寺のエピソードにお付き合いください。

住所:〒969-3505 福島県喜多方市塩川町金橋金川2089−1

金川寺

この金川寺の開祖は、八百比丘尼(やおびくに)です。文武天皇に使えた秦の勝道(かつどう)の娘にあたります。秦の勝道は、聖徳太子の老臣・秦の川勝より三代の孫にあたるようです。和銅元年(西暦709年)に、秦の勝道はいわれのない謀略によって、会津磐梯山麓の更科の里に流されてしまったようです。養老二年(西暦718年)に生まれた娘を千代姫と名付け、父母の菩提のために建てたのが金川寺です。

つまり、秦氏は会津の地に来ていたのです。

前述の796年、婦女2人ずつを養蚕のために会津に遣わせたのも、秦の勝道が秦氏の勢力地として会津に居を構えたから…と考えるのは邪推でしょうか。時系列的には合致します。おそらく、この頃の歴史はシンプルに考える部分も必要で、「人のあるところに人が訪れ、人のあるところに文化が成る」ことを考えると、養蚕技術が秦(中国)→九州・有田遺跡→福岡、佐賀、長崎(弥生時代)→近畿、中国、北陸地方や熊本県(古墳時代)→会津に至ったことも無理のない流れだと思います。


まとめ

文化の伝承は、必ず人を媒介します。小さな単位の氏族が勢力地の獲得を目指し、それぞれがその地域に根ざした産業の発展を目指していた…と考えると、同族内における産業の伝承は必ずあったはずです。

養蚕技術は、中国で羌族が培ってきたものです。日本では羌族姬氏の存在をすっ飛ばして「秦氏」という氏姓が突然出てきますが、それは正確ではありません。羌族姬氏にすべきです。

人の流れと文化伝承の流れを追うことで、もう少し深い歴史の考察ができる可能性があります。養蚕は、その可能性を秘めた1つかもしれません。今後、少し文献を読み込みながら、ブラッシュアップしてみたいと思います。

(※)
秦の中華統一前に養蚕技術が日本に伝わった場合、秦以外の六国から日本に伝来した可能性もあります。なぜなら、秦の領土は海に面していなかったからです。一方で、徐福は斉の生まれとされていますが、秦の統一前から日本とのコネクションを持っていて往来していた可能性も否定できません。

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