見出し画像

趙姫が淫乱女とされた理由

趙姫は「止めどなく淫ら」なので悪人?

嬴政の母・趙姫について、司馬遷が編纂した「史記」では、事あるごとに「止めどなく淫らである」としつこいほど記載しています。

キングダムでもお馴染みの、「嫪毐の乱」も「史記」に登場しますが、その冒頭でもやはり「太后淫不止(太后止めどなく淫ら)」と記載しています。そんなに書かなくても…というくらい書くのです。

そもそもこの時代、秦の法による判決では「夫が亡くなった後の妻の密通は無罪」という判例が発見されています。現代のモラルが形成されていない時代なので、今の価値観で当時の人物像を確定させてしまうことは非常に危険です。

この判例から判断をすると、密通した趙姫も嫪毐も、果ては呂不韋についても(密通していたとしたら)、無罪なのです。趙姫の夫である秦の第30代君主・荘襄王は、紀元前247年に35歳で死去しています。在位たったの3年。それ以降、趙姫が他の男と密通していたとしても、罪には問われないのです。

史記が消そうとした痕跡~趙姫

どうも「史記」では、呂不韋を悪人たらしめその痕跡を消そうとした結果、趙姫や嫪毐までをも「悪人たらしめ」なければ辻褄が合わなくなってしまったのではないかと思います。

趙姫の年齢と出来事を少し列記してみます。

紀元前280年 誕生
紀元前259年 21歳:子楚(荘襄王)と結婚
2月、嬴政(始皇帝)が生まれる
紀元前250年 30歳:秦に入国
紀元前249年 31歳:荘襄王、即位
紀元前247年 33歳:荘襄王、死去

子楚に気に入られて結婚するまでは、呂不韋の妾だったと言われています。ということは、少なく見積もっても20歳の時から呂不韋と付き合っていたことになります。

嬴政が趙姫と呂不韋の子であると考えているのは、子楚と趙姫が結婚した年、紀元前259年に嬴政が生まれているからです。しかも2月に生まれている。必ずしも結婚してから子作り…ではなかったと思いますが、2月に生まれるとしたら少なくとも前年、趙姫が20歳の時に子楚と趙姫が出会って関係を持っていなければなりません。つまり、趙姫が呂不韋と付き合って関係を持っていたのはそのもっと前、19歳とか18歳という話になってくる。

これはどうもおかしい。

子楚が知っていた可能性

子楚は、嬴政が生まれた時に「これは呂不韋の子だ」ということを知っていた可能性があると見ています。なぜなら、結婚してすぐに太子嬴政が生まれたにも関わらず、正室として趙姫と太子嬴政を邯鄲から呼び寄せなかったからです。

一般的には、「趙姫と嬴政の生存が分からなかった」、ということになっていますが…嬴政誕生から趙姫の秦入国まで9年も歳月が流れているのです。秦ほどの強国で、各地から食客が何千人・何万人と訪れているにも関わらず、「妻も子も生死が不明だ」というのは強国の主としてあってはならないと思うのです。自らの妻子の安否も分からぬ状態で、各国の敵情だけつぶさに知っていて、それで成蟜を産んだ…というのも、都合が良すぎる。

子楚が趙脱出の際に、趙姫と嬴政を残したとされる、邯鄲という地。ここは、呂不韋と趙姫が出会った場所でもあります。嬴政の本当の父親である呂不韋は、紀元前252年、38歳で秦の丞相になっています。恐らくそれまで、呂不韋が邯鄲で趙姫と嬴政の面倒を見ていたのではないでしょうか。

子楚(荘襄王)は、趙姫がすぐに懐妊したことから、嬴政が呂不韋の子だと知っていた。そのため、邯鄲から王宮に呼び寄せることはなかった。その間に、子楚(荘襄王)は正室を見つけ、別の太子を生みたかったのでは。子楚は35歳という若さでこの世を去ります。

趙姫は悪女だったのか

子楚が死去した時、趙姫はまだ33歳。ひとりの女性として、他の男性と関係を持ってもおかしくないと思います。その相手が、嫪毐でした。この嫪毐のエピソードも、「史記」による創作だと思っています。

「史記」が編纂された前漢の時代、第7代皇帝・武帝の時です。この武帝が、前漢そして自らの栄華を正当化するために、色々と創作させた部分があると思っています。武帝は、法ではなく儒教を国家統制の理念として国造りをしてました。この儒教の理念を趙姫に適用し、「実は趙姫はこんなに悪い女性でした」という創作をしたのではないでしょうか。だから冒頭の言葉で、淫らな姿ばかりが強調されているのです。

作家・浅田次郎談
「司馬遷はかなり話を盛りましたね。相当話を盛って面白くしちゃった」

それは前漢が倒した秦の始皇帝を否定するためでもあります。「始皇帝の母親はこんなに悪い淫乱女だ」ということにして、その秦を打倒した前漢(劉一族)が最も正当な国家なのだとアピールしたのです。

始皇帝を悪者扱いし、趙姫を悪者扱いし、呂不韋も同様、そして本来は趙姫が真っ当な男女関係を持っていたにも関わらず、貶めるために創作された嫪毐という人物の逸話。これについては、次回書きたいと思います。

その他の記事は、下記からお読み頂けます。

昌平君の家系図や始皇帝・劉邦にも迫った下記の記事もご覧ください。

サポートありがとうございます。独自の取材・考察に使わせていただきます。