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図解|太行八陘から見る趙包囲ルート

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

昨年は「歴史から消された呂不韋の真実」を出版して、このブログで書いてきたことの1つの集大成となった気がしています。皆様に応援いただいた結果でもありますし、本当に感謝してます。

まだ読まれていない方は、ぜひお手に取ってくださると嬉しいです。まだ書き加えたいこともあるのですが、それは次回のお楽しみということで、引き続き歴史の探求をしていきたいと考えています。

キングダムで展開される「秦の趙攻略戦」

現在、本誌キングダムでは秦による趙攻略戦が続いています。秦による趙攻略は本当に骨が折れる戦だったはずで、その理由の一つに「地形」があります。以前、太行山脈について記事を書いたのですが、覚えてますでしょうか。

本誌キングダムでは、秦軍が邯鄲の真横を通り抜けて趙北部に進軍したような描き方がされていますが、私は「趙の長城」が邪魔をしてそれは無理だったと考えています。つまり、桓騎をはじめとして秦軍一行は、太行山脈を超えて趙北部に迫ったと見ています。

太行山脈から趙攻略を想像する

太行山脈は、秦と趙を隔てる巨大な山脈として南北に走っています。改めて、太行山脈にスポットを当ててみます。

太行山脈には八つの峠道があり、古くから太行八陘の名で知られています。上記の画像で見てもらうと分かりますが、西の咸陽(秦の王都)から邯鄲を狙うには、太行山脈を越えなければなりません。秦は邯鄲を北と南から挟み撃ちしようとしたのではないか?と考えています。

その役目を背負って動いたのが、桓騎です。

①紀元前234~233年:平陽の戦い
②紀元前233年:武城の戦い
③紀元前233年:肥下の戦い(宜安周辺)

これも想像になりますが、桓騎軍は秦の中で最も機動力に優れ、統率された強力な部隊であったと思われます。

紀元前236年に、第1陣の大将・王翦が白陘ルートで鄴を陥落。桓騎はここにも参戦していたと思われます。

その後、桓騎軍は紀元前234年に屯留から滏口陘ルートで太行山脈の東側へ進出し、①②を1年ほどで陥落させ、邯鄲の南側を封鎖。②と同じ年に趙北部へ向かいました。これは過去記事で書いた通り、邯鄲の真横を通り抜けたわけではなく、太行山脈を越えて太原(狼孟のすぐ南側)に入り、そこから井陘ルートで太行山脈の東側へ進出したと考えています。

この3つのルートに蓋をしてしまえば、秦はいつでも南北から邯鄲を狙うことが出来ます。逆に趙にとっては、この3つのルートを支配されてしまうと窒息するような日々を送ることになりますので、なんとしても防がなければなりません。この太行山脈という地の利を巡って繰り広げられた将棋のような戦いが、秦の趙攻略戦でした。

激務を貫いた桓騎の決意

秦・桓騎は邯鄲の南を封鎖し、邯鄲の北も押さえようとした矢先、趙・李牧によって破れたのです。その後、李牧は趙軍を狼孟まで進軍させます。守りの人・李牧が、最強・秦軍を最も押し込んだ場面になります。秦にとっては、太原を失う一歩手前だったわけです。李牧に対する謀略がなかったら、どうなっていたのでしょう。

話を戻します。奮闘した桓騎は都合2年に及ぶ行軍であったため、厳しい冬の中で体力を消耗してしまったとも想像します。特に北部の太原からの井陘ルートの行軍は、仮に冬であればかなり寒さが厳しく、このような連戦での行軍ということも合わせてかなり辛かったのではないでしょうか。恐らく桓騎は「片道切符」という決心を抱きながら、趙北部攻略を目指したのだと思います。

雪化粧する太行山脈

余談ですが、太原を封地としていたのが、あの嫪毐(ロウアイ)です。また、成蟜が反乱を起こしたのは屯留の兵士を動員したことが分かっています。いずれの地も、太行山脈を越える際の要地となっていることから、2つの反乱は趙が裏で手を引いていたのでは?と妄想することも出来そうです。特に嫪毐という人物は、当時の秦において呂不韋に次ぐ権力を有していたと思われ、呂不韋がそそのかすよりも趙がそそのかしたと考えるほうが、動機としてはもっともらしく思えます。趙にとってみれば、自ら手を下さずに「太原」という緩衝地を得られるわけですから。私は趙の謀略だと思っています。

その趙による謀略をやり返したのが、王翦や昌平君でしょう。その謀略によって、趙はいよいよ滅びる運命を辿ります。

お読み頂きありがとうございました。


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