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キングダム第703話考察・逆手の大戦略

前回、肥下の戦いの図解記事を書きました。

本誌キングダム第703話で、キングダムにおける秦・趙の行軍ルートが分かりましたので引用させて頂きます。

なんと!
桓騎軍は王翦軍と合流し、太行山脈を越えずに閼与(あつよ)から宜安を目指すことに。これはかなり史実とは異なる展開かと思われます。

趙の長城については、下記の考察で詳しく記載致しました。

記載した通り、趙の長城は太行山脈の東麓から始まり、西に160kmに伸びた大きな長城です。よって、今回のキングダムで描かれたように、秦軍が武城近辺から太行山脈を越えずに閼与(あつよ)を経由して、北方の宜安に行くのは無理です。

閼与は太行山脈の中間地点にあるはずで、太行山脈の東側にあるように描かれているのも不自然なのですが…このルートだと長城を迂回して邯鄲に簡単に迫れることになってしまうので、宜安に行く必要は全く無いです。蓋をするなら宜安まで行く必要もない。

改めて、史実における秦と趙の行軍ルートを掲載します。

図解|肥下の戦いに至る行軍ルート

こちらの図解の通り、趙の長城の南側から邯鄲の北にある宜安に向かうためには、長城が邪魔をして太行山脈の東側から北側に抜けることが出来ません。よって、史書で書かれた桓騎軍の行軍ルートは、太行山脈を越えて宜安に攻め入ったということです。つまり、桓騎軍は平陽の戦いの現場から、一度太行山脈を越えて西側に移動し、太原から宜安に至るというとてつもない距離を移動しているのです(紫のルート)。

また、桓騎軍が宜安を攻め落としたことで、趙は北方警備軍(李牧軍)を宜安に向かわせていますので、本来は李牧は北からの参戦となるはずです。趙の王都軍は邯鄲から宜安に向けて北上します。もしキングダムで描かれたように、秦軍が太行山脈の東側を北上出来るとするのなら、宜安に到着する前に邯鄲にいる王都軍が迎撃していたでしょう。秦軍も、わざわざ長城の南側で戦うことなく邯鄲に迫っていたと思います。今回の本誌キングダムで描かれた「閼与」を王翦が既に落としている時点(紀元前236年、平陽の戦いの2年前)で「詰み」です。閼与は太行山脈の中間地点にあったはずなので、そもそも場所が違いますし、既に王翦が落とした拠点なので、今回新たに攻略する意味もありません。

史実から判断すると、桓騎軍による宜安攻撃は恐らく奇襲に近いものであり(趙は長城南でずっと桓騎軍が戦っていると思っていた)、対処に遅れた趙が李牧軍を北方から南下させてこれに対峙させたと考えられます。

今回は原先生の行軍ルートにかなり辛口に反論させて頂きましたが、私個人としては桓騎軍が秦に対して貢献した度合いが非常に大きい戦だと考えています。だからこそ、桓騎軍がこの1~2年で苦労して行軍した距離や幾多の激戦を、史実通りに描いて欲しかった部分もあります。ただの残虐な男と言うだけではなかったと思います。

さて、今回は秦が宜安を狙う目的が明かされました。北の地である宜安に「蓋をする」ことで趙王家が北方に逃げて生き延びるのを防ぐという王翦の策略です。今回の本誌キングダムのタイトル「逆手の大戦略」には伏線があるので、少しだけ書いておきます。

王翦の今回の目論見は、史実では趙の公子・嘉が河北省張家口市蔚県に逃げ込んだことで失敗に終わる予定です。公子・嘉は趙の残党に支持されてここで代の国を興し、嬴政の暗殺を企てます。その代を滅ぼすのが王翦の子・王賁であるというところが、今回の王翦の「逆手の大戦略」から繋がっていくわけですね。

公子・嘉が逃げた河北省張家口市蔚県は、山脈を越えた遥か北です。

公子・嘉が逃げた河北省張家口市蔚県の位置

また、公子・嘉の逃げ道を最後まで準備していたのも傑物である李牧だったという点も、きっと描かれることでしょう。李牧は一体何手先まで読んで行動していたのでしょう。代建国に至る「李牧の一手」も、きっと原先生によって描かれることになると思います。


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