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キングダム第702話考察・驚くべきもの

史実通り、李牧が「地の利」を活かせるであろう宜安(ぎあん)に決戦の舞台が移っていくようです。

本誌キングダム・第702話より引用

漳滏長城

一方、平陽城と武城を攻略中の王翦は、邯鄲の南に「長城」を発見します。この長城ですが、史実でもその存在の痕跡が残っています。恐らく、邯鄲南にあった漳滏長城だと思います。

<漳滏長城>
戦国時代の趙の南長城は、紀元前333年に漳水、滏水の堤防が開通して建てられたため、漳滏長城とも呼ばれる。

趙の南長城は邯鄲市の南に位置し、 趙南長城は邯鄲市の南境に位置し、太行山脈の東麓から出発して、東に向かって古代の漳水の北岸に沿って走り、西から東北の都市に向かって曲がり、長城も東北に向かって曲がり肥乡县の南境の漳水西岸で終わる。

この長城を建設した時、趙は武霊王(紀元前340~紀元前295年)の時代。李牧は紀元前229年に亡くなってるので、紀元前333年の長城建設時には生まれてない可能性が高いと思います。よって、本誌キングダムで書かれた「李牧の長城」は史実では存在していないと思われます。

下記が史実の長城の位置です。

戦国時代の長城地図

もともと邯鄲の南が魏の領土で、ここに防波堤のように長城を築くわけですが、この図にも「紀元前333年」と記載があります。ということは、長城建設から平陽の戦いが展開された年まで100年経過していることになります。これを秦軍が「知らなかった」ことはないのでは?と思いますよね。恐らく秦軍は知っていて、要所である武城・平陽城を落としたのではないでしょうか。

この漳滏長城は、全長400里あったと言われています。古代中国の1里=400mなので、400里は160,000m、つまり160kmに及んだということですね。ちなみに本誌キングダムでは「250里」とされているので、史実の長城と比較すると少し短いですが、それでも100kmの自然の城壁なのです。

実際には、西側の太行山脈から、漳水あたりまでこの長城が続いていたと思われます。「肥郷県(肥乡县)南境の漳水西岸で終わる」という説明もありますが、それだと100kmくらいです。

現在の地図では、太行山脈~黄河までの直線距離が約200kmです(下図)。古代中国の黄河はもっと西側(太行山脈川)を流れていたので、全長160kmだと黄河に迫る場所まで長城があったのかもしれませんね。

現在の戦いの地にスポットを当てつつ拡大してみます。

秦軍が布陣したのは、長城の南側。現在、秦軍は平陽城と武城を攻めているわけです。ここを抜いたとしても、長城があるため邯鄲の南側から攻め入って邯鄲を攻略することは難しいと思われます。邯鄲は難攻不落の城塞都市だったわけですね。西には太行山脈がそびえ、目の前には全長160kmもの長城があり、東には黄河がある。秦の大軍と言えど、相当手を焼いたと思われます。

宜安という場所

宜安は、現在の石家庄市西にあったようです。本誌キングダムでは、呼び戻された李牧が真っ先に向かった場所がこの宜安です。つまり、李牧が能動的に選んだ戦地ということになります。

『史記』秦始皇本紀によれば、「十四年,攻趙軍於平陽,取宜安」という記載があり、桓騎軍は始皇14年(紀元前233年)に一度宜安を落としています。

桓騎は邯鄲の南側から大軍を送り込むことは困難だと考え、邯鄲の北側から大軍を送り込もうと考えたように思います。そのため、平陽から一度西に軍を動かし、太行山脈を越えてから宜安に向かったようですね。

大軍で太行山脈を超えるのも至難の業です。

太行山脈から石家庄市に出る前には、固関長城という山西省平定県の名所があります。冬になるとこのあたり一体も雪に覆われるわけです。

桓騎はこのような太行山脈を越えて、宜安を落としました。そうなのです、一度桓騎は宜安を落としているのです。

秦による趙攻略(図解)

これも妄想になってしまいますが、李牧はわざと「桓騎に宜安を落とさせた」のではないでしょうか。守備の強い李牧が、宜安でそのための仕掛けをしていたとしても、おかしくはないのかな、と。

本誌キングダムでは、これから宜安を舞台とした「肥下の戦い」が描かれるわけですね。秦の趙攻略戦において、最も過酷な戦いの1つになりそうです。


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