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論文|日本に来ていた周王族

先日、現代人のサンプルと春秋時代の黎国西関墓地の貴族サンプルに対して分析を行い、父系N1a2-F360の起源と拡散の歴史を解き明かす論文が出ました(現在、Pre-proofです)。


有料文献のため、購入して読破しました。※複写掲載は控えます。

<論文の要点>
✅DNAサンプルは周代黎国墓地のもの(山西省)
✅日本人の父系Nは中国から数千年にわたって拡散してきた
✅姬周貴族・姬周王族の末裔である可能性が高い

1つの論文だけで確定判断するのも危ういのですが、今回はDNAのサンプルが確かなものであることと、DNAのデータベースに間違いがないという前提で考えれば、日本人が中国の姬と関係していることは確定でしょう。

本題に入る前に、姬(き)について少しだけ。理解する助けになると思います。

<姬(き)とは?>
中国史では、姬姓は元々、禹の姒姓と同祖であり、黄帝、帝嚳の別姓とされる。嚳の子孫の后稷はこの姬を姓として使ったという。后稷の子孫とされる古公亶父が周の始祖であり、その曾孫の武王が殷を滅ぼして、周王朝を築いたためその国姓となった。

姬の血筋の中に、古公亶父が出てきました。論文の要点で言うところの、「姬周貴族・姬周王族」とは、まさに周の始祖である古公亶父から始まった血筋だということになります。

ここから本題で、以前私が書いた記事が単なる妄想ではなく、DNA的に証明されることになります。

改めて、古公亶父を掲載しておきます。


臨済僧・中巌円月(1300年~1375年)が編纂した『日本紀』という書物の中で、「皇祖(天皇家)は呉太伯の後裔」とする説が記載されていました。但し、万世一系・純日本の血統を主張しなければならない日本には都合が悪く、歴史から抹殺されるわけです。

ただ、中国の史書『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などに、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)と記載されているのです。

今回の論文によって、日本人に姬(周王朝・古公亶父以降の王族)の血が流れていることがハプロ的には確定しました。つまり、羌族の血が日本人に流れているということです。さらに深堀りすると、日本の皇族にも太白の血が流れていても全くおかしくないばかりか、「日本の皇族は周王族の後裔である」ということも言えなくはない状況になりました。

こちらも再掲しておきます。

羌族の血は周王朝と婚姻関係にあったため、歴代の周王も羌族の妻を正室としていました。つまり、周王朝は羌族とは切っても切れない関係にあり、その周の王族が日本に来ていただけではなく、日本人の1つの血統を作っていくわけです。周王朝、そしてその血統の片棒を担いできた羌族が、日本に来て日本における一大勢力となっていったことになります。当然、勢力地もあったことでしょう。

…となると、この人にとっても「日本が縁もゆかりもない土地ではなかった」ということになります。

そう、皆さんご存知、呂不韋です。彼にも羌族の血が流れていました。

その子である嬴政(始皇帝)が、同じ羌族である嬴政が、日本に行ったこともなく縁もゆかりもない「怪しい徐福」に、日本行きを命じるでしょうか?

今回、周の王族(羌族を含む)が既に日本に住み、勢力地を獲得していたことがほぼ確定しました。その羌族の系譜の中にいた秦時代の傑物・呂不韋が、勢力地である日本に赴くほうが合理的です。嬴政も、羌族が日本に既に居住していて、勢力地を持っていたことを知らないわけがない。知っていたと考えるべきです。

であれば、嬴政は他の誰よりも日本に関する情報を得やすい環境にいたはずです。血統のネットワークがあるからです。にも関わらず、誰だか知らない徐福に突然日本行きを命じるのは不自然極まりない。だからこそ、私は「後世に創作された意図」を感じてきたのです。

実際、羌族は古代中国において大民族であったのです。

また、この時代の日本における文化的な革新においても、単なる(失礼)方士であった徐福ではなく、呂氏春秋を編纂した呂不韋が来日したほうが自然です。

今回はここまでにしたいと思います。朝から興奮冷めやらぬ状態で、論文を読み込んでました。私の数々の「妄想」も、少しは妄想ではなくなってきたような気がしています。

現在、日中合同シンポジウムの書籍も読んでいます。また発見がありましたら、記事にしてみたいと思います。

※本記事は歴史や民族に関する通説の正誤を問うものではありません。
※エンターテインメントの1つとしてお楽しみください。

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