アジア寺修行の記憶①ワットウモン

私がはじめてアジアの寺に滞在したのはチェンマイの外れにあるウモンというお寺だった。

その寺では簡単なコースを開催していて仕事の合間を縫って待望の7日間コースに参加した。

はじめての寺籠り。はじめての遠足の小学生のようにワクワクしていた。見るもの聞くものすべてが新しい。テレビも無い狭い部屋でゴザ一枚、毛布一枚で寝るなんて斬新だった。朝3時に鐘の音と共に起床する健康的すぎる生活。僧侶と共に歩き托鉢に行けるなんてもう嬉しすぎた。意味はあまりわかならいがパーリー語の読経を皆で朝の暗いうちから唱えるなんて雰囲気がありまくりだ。昼ごはんを食べたら水以外は何も食べないなんてそれまで経験したことが無かった。つらいだろうと思っていたらこれが逆にとても爽快だった。身体が軽くなり心地良い。なんだこの不思議な感覚は?これを続けるといったいどうなるんだろうか?。なにがおこるのか?と期待感が高まる日々だった。

コースの担当は韓国から来た韓国の曹渓宗出身の30代の留学僧だった。

朝の托鉢から食事そして瞑想まだ親切丁寧に教えて頂いた。凛とした中に瞑想をしっかりしている僧侶独特の優しさを感じさせる良い僧侶だった。
彼の涼しげな佇まいに私も続ければ彼のようになれるのか?と憧れを抱いたのを覚えている。その彼が私にもう韓国に帰るつもりはない。一生涯タイで修行をするんだといっていたのをなぜか今でも気になり憶えている。

私もあなたのようにお坊さんになれますか?と彼に聞くと、もちろんなれるよ。なりたいなら手伝うよといってもらったのがとても嬉しかった。

また会いたいなと思い半年後程にウモンを訪れたが彼はチェンライの山奥の寺に移ったとのことだった。もう10年以上前の話し。彼はどこかの山寺に住み今日も托鉢にでてるのであろうか?

この当時瞑想といえば目をつむり呼吸に気づく集中系の瞑想をしていた。

どれだけ長くどれだけ集中できるのか?そして続けると少し変化が起こる。とにかく朝から晩まで静かな境内で目を閉じて座り、そして目を開けて歩く瞑想を繰り返した。きっとなにかが変わる。それがなにかはわからないがなにかがきっと起こると期待していた。1日終わるともう身体はクタクタになり夜は泥のように眠っていた。次の日もまた次の日も朝の3時から同じように座り続けた。元々体育会系の私にはなにかを一生懸命頑張りなにかをクリアし次ぎのステージにというパターンは得意な分野だ。それまでの人生なんとかそれでうまくいっていた。足が痺れようが腰が痛くなろうが朝から晩までひたすら座り、歩きを繰り返した。何が起こるかはわからないがきっとなにかの変化があるはずと期待していた。瞑想の入り口に入ったばかりで右も左も判らないままただただ言われるままに座り、歩くを繰り返えす日々だった。                

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