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タクシードライバー

タクシードライバーが自殺した。

タイのタクシードライバーが、コロナの影響で仕事が激減し、政府による保証も不充分で、将来を絶望して自殺したというニュースを見た。

まだコロナ騒動がここまで拡大化する前、今年の頭に、僕はタイ旅行に出かけた。
コロナ騒動は始まり出していて、多くの旅行者は皆マスクをし、有名な観光スポットも人が疎らではあったが、まだそこには観光を楽しむ人々の明るい雰囲気があった。
人が少ないおかげで、ゆったりと観光出来て逆に良かったと話したものだ。

ドンムアン空港からバンコク市内に向けては、初めてのタイだったし、到着した時間も夜遅かったので、僕達は安全第一にタクシーを使うことにした。
タクシー乗り場がいまいち分からず、観光用のバン乗り場の受付に行って問い合わせると明らかに料金が高いし、また別の案内に問い合わせるも英語がしっかり聞き取れず、よくわからないビルの地下に出た。そこで初めてむせかえるようなバンコクの空気を吸った。

一通り迷った挙句に、ようやくタクシー乗り場を見つけてホテルの住所を伝えて空港を出発した。
ドライバーのおじさんは、背が高く、ガッチリとした体躯で、歳は50半ばといったところ。浅黒い肌で、口数も少なく、あまり愛想が良いタイプではないが、悪い人ではなさそうだった。

ドンムアン空港を出発すると、ドライバーのおじさんが僕達に話しかけてきた。

「ウェアーアーユーフロム?」

初めて聞くタイ訛りの英語。聞きとるのに、少し苦労するが、まあそれは日本人の僕達が発する英語も同じだろう。

おじさんは、あまり英語は得意ではなさそうだ。いくつかの決まり文句を覚えて、こうして少しでも乗客とコミュニケーションをとろうとしているようだった。

僕は「ジャパン」と答えた。

するとドライバーのおじさんは、

「ウェルカムタイランド」

と言った。

おじさんも英語は苦手そうだし、僕も喋れないので、車内は終始無言だった。
窓の外は東京に引けを取らない、というか東京でも見ないような高層ビルのネオンが光る。
途中、高速道路に乗る、その料金が別にかかるが良いか?と尋ねられた、恐らく。
僕達はその問いに同意した。おじさんとの二回目の会話だった。

僕達はバンコク西部の王宮周辺に宿を予約していた。おじさんが着いたよと車を停めた場所は、僕達が予約した宿と良く似た名前の別のホテルの前だった。

僕達が予約していたホテルは、こじんまりとしたホテルだったので、おじさんにも分かりづらかったのだろう。
渡航前に入念に調べていたので、予約したホテルのすぐ近くまで来ていることは確かだった。僕達はおじさんに料金といくばくかのチップを渡した。
タクシーの扉を開けると、むっと熱気と湿気が混ざった空気に包まれる。チャオプラヤー川沿いのホテルだったので、少し生臭い川の匂いもした。
おじさんは僕達のトランクを車から降しながら、僕達のいまいちすっきりしないような表情に気付いたようだ。
予約したホテルは、降ろしてもらった場所と通りを一本隔てた場所にあった。歩いてすぐだし、僕達はおじさんに礼を言い、おじさんは君達が良いなら構わないのだけど、とでも言いたげな表情をしながら、車に戻り去っていった。

微笑みの国と言われるタイ。日本でうまくメインストリームに乗れなかった僕のような日本人は、この世界からの逃避場所としてタイに辿り着くことがある。
とにかくタイに行けば何かが大丈夫になるに違いない、もしかしたらその後タイに移住するかもしれないし…そんな思いを抱えながらのタイ渡航だった。

観光客には入ることのできない現実の生活というものがある。物価が安いと喜ぶ裏には、安い賃金で働く人がいる。当たり前のことだ。
タイでは政府からの保証が確か月に1万5000円程度で、しかも給付される対象も少ないとそのニュースで報じていた。安い食堂を利用すればなんとか一月食い繋げる程度の額なのだそうだ。
ニュースでは自殺したタクシードライバーの生前の写真と、その早過ぎる死に無念の思いを語る同僚達の姿がうつされた。
僕はその同僚達の中に、あのおじさんの姿が無いことを祈りながらテレビの電源を消した。

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