結局ぼく達にできることは、祈ることだけだ。
相変わらず通勤電車の中で瞑想をしている。
混んでいないので、ゆったりと座れて、結構集中して瞑想できている気がする。まあ、推奨されるやり方ではないですけどね。
本当の瞑想とか、マインドフルネスとか、ぼくは専門家じゃないから良く分からないけど、個人的には瞑想による変化を感じている。
こうして毎朝瞑想していると、この行為は、様々な宗教が神を敬うのと同じことをしているのではないか、と心当たる。
ぼくは特定の宗教を信仰しているわけではない。世界三大宗教のユダヤ教にも、キリスト教にも、イスラム教にも傾倒していない。
強いて言えば、仏教徒だが、クリスマスにはプレゼントを用意するし、初詣は神社に行く。
仏教は他の宗教と違って、神とされる存在を信仰するのではなく、己の訓練によって迷いから抜け出す方法を伝えたゴーダマ・シッダルッダの教えを尊ぶものだ。
そして、ぼくはその教えをもっともだな、と思う。そう思うだけで、厳格に教えを守っているわけではないのだけど。
そういう意味では、ぼくは無神論者と言えるかもしれない。
神様という言葉を聞くと、「全知全能の神よ、何故あなたはこうも悲劇が蔓延る世界を創造されたのですか?」と問いたくなってしまう。
しかし、瞑想をしていると、ぼく達の世界を取り巻く慈悲深い絶対的なエネルギーの存在を、なんだか信じたくなってくるのだ。
もっとも、人はその絶対的なエネルギー存在のことを、神、と呼んでいるのだろうけど。
さて、今日、ぼくの両親がワクチンを接種した。
安全性の確認が脆弱なワクチンだから、もう少し様子を見てからの接種でも遅くはないのでは?とぼくの意見を伝え続けたのだが、両親は接種することを選択した。
当人達も、危険性を了解した上での判断だろうし、ぼくは両親の選択を支持したいとは思う。
もう、ぼくに出来ることは、両親に重篤な副反応が出ませんように、と祈ることだけだ。
結局、ぼく達に出来ることは、常に祈ることだけなのだろうか。
空爆の被害で、廃墟と化した我が家のガレキの中で、血だらけの死体となった我が子を抱く、血だらけの父親という中東の映像がメディアに映ることがある。
祈ることが、単なる現実逃避であり、非科学な対処法だとされるなら、あの父親はどうやって我が子を守るべきだったのだろう。
空爆の情報を掴んだ時に、いち早くその場から逃げるべきだった?
悲惨さを動画にとって世界に訴えるべきだった?
特権階級になる努力をして国外へ避難するべきだった?
では、そのどれもができなかった人はどうすれば良い?
そして、その世界に同居しているぼく達はどうしたらいい?
結局、ぼく達には祈ることしかできないのなら、せめて祈りを捧げたい、と悲惨なニュースを見る度に思うのだ。
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