片手は常に空けておけ
明日は、パントマイムを教える仕事の日です。
この仕事をされている方は、日本にどれくらいいらっしゃるのでしょう?
恐らく、そう多くはないと思います。
その昔、母に
「あんたは教師に向いていると思う」
と言われたことがあります。
学生の頃なんて、えっ学校の先生なんて、まっぴらごめんだよと思った記憶がある。
だって、自分のように厄介な奴の面倒見るのなんて、絶対嫌だと、若かりし頃のぼくは思った。
さて、そう思った頃から早20年が経った。
ある意味、母の予言は少し当たって、ぼくは生徒を持つ生活を、もうかれこれ4、5年している。
まあ、とは言ってもパートタイムの雇われ講師だから、生徒達の面倒を全面的に見るというよりは、たまに現れてパントマイムという奇妙なものを教える摩訶不思議な人物と生徒達には思われていることだろう。
もっとも、ぼくにとっては生徒とは、それくらいの距離感が心地良いのですが。
良く、人に教えると、生徒たちから教わることのほうが多い、という言葉を聞いたり、読んだりしますが、これはまさに本当で、生徒に教えることで、自分が教えているものの真髄に気付くことが良くあります。
授業とはいえ、授業も一種のライブパフォーマンスだと思っているので、出来るだけ生徒に退屈な時間だとは思われたくない、とぼくは思っています。
そこで、前もって授業の内容を考えてみる。
はじめは生徒達に、これこれこういう話をして、その後はこういうエクササイズをする。休憩後に、こんな感じの課題をやって、締めにこういう話をする。
という感じで、きっちり段取りを考えて授業にのぞんだ時ほど、実はあまり良い手応えを感じられません。
原因を考えてみると、ぼくの課した課題に対して、生徒達がどう生の反応をしているかを感じとるぼくのアンテナが働いていないことが多いのです。
前もって考えてきたメニューを遂行させることだけに意識が向いてしまって、生徒達の生の反応を感じとる意識が働いていないのです。
かといって、ノープランで授業にのぞむのも、あまり良いとは言えません。
実は、ぼくはノープランでする授業が結構好きなのですが、生徒たちに体系的なシステムをきっちり伝えることに繋がりません。
その場その場はお互い楽しくても、良い時と悪い時の波もあります。
なので、大局的な狙いは意識し、その為のメニューを用意しつつ、自分の意識の運びにしっかり余白を残して、生徒の反応を見落とさないよう、そんな授業が出来たらバランスが良いかな、と最近は思っています。
策を練るのは大切、でも無策で出たとこ勝負の心持ちも大切。
ああ、これはまるで、人生の全てのことに通じそうではありませんか。
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