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家族との適切な距離感

村上春樹さんの短編小説「トニー滝谷」の中に、

トニー滝谷は息子にむいていなかったし、父の滝谷省三郎は父にむいていなかった。

というような記述があったと思う。

ぼくはこの一節を読んで、ああ、自分も息子であることにも、恐らくは父であることにもむいてないだろうなあ、と共感した。

もっとも、人というのは誰しも親になる前は、そんな心境なのかもしれないが。

ぼくは18歳で家を出て、10年くらい一人で暮らして、その後結婚して、まもなく10年になる。

結婚して以来、両親との関わりも増え、離れて暮らしているのだが、たまに食事などをする機会もあり、今となって、コロナ禍で人と人が疎遠になっている状況で尚更そう感じるのかもしれないが、両親や家族というのは、ありがたいものだな、とつくづく思う。

ただし、それはぼくが今の年齢となって、両親との適切な距離感を掴み始めているから、そう感じているのかもしれない。

これが同居ということになると、もしかしたら事情は違ってくるのかもしれない。

まったくオヤジはとか、まったくオフクロはと腹を立てることも多くなるだろう。
家族というのは、あまりに近く、愛があるが故に、また疎ましくもある存在なのかもしれない。

かつての日本のように、強烈な父性が存在して、家族はみんな父に従う、という在り方はあまりに窮屈だし、かといって、お父さんが隅に追いやられ、各々バラバラ、まるでシェアハウスの同居人かのような家族の在り方もあまりに寂しい。

ぼくには、一族の、とか、一家のみたいな血の繋がりを重視するような意識はこれまであまりなかったが、やっぱり親戚縁者というのは大切にするべきなのかもしれない。

そういった人間関係の中に入ると、ふと安堵感を覚える自分がいるからだ。

巷では、コロナ禍になり、家族に会うのを敬遠している方が多いという話を聞く。

安全面のことを考慮すると、軽率に大丈夫とも言えないかもしれないが、一人暮らしの老人が人間関係を絶たれて、家に引きこもっているというのは、心と体の双方にあまり良い影響を与えないと思う。

その証拠に、先日頂き物をしたお礼で高齢の叔母に電話をすると、叔母は嬉しかったのか、ぼくと一時間近く電話で話した。

内容はというと、これまた親戚縁者の愚痴だったりするのだが(笑)、まあ電話で話して、鬱憤を晴らせたり、お互いに元気を貰えたりするなら、愚痴というのも悪くない。

そもそもリスクの曖昧な感染症である。
祖父母や、父母、息子娘、孫に

「どう元気?」

と一言声をかけてみてはどうだろうか。

きっと、いつも以上に喜んでくれて、あなたも嬉しくなるはずだ。

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