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質的研究のためのリサーチ・アプリ活用法 Obsidianの思考 Ⅰ-3 補論 PIM からPKMへ[前編-2]

2. 比較としてのPKM

2-l PKM概念の登場

では,今度はPKM(Personal Knowledge Management)を対象にしましょう。
大まかには,先回の前編でその歴史的推移を追いましたが,その後の探究を踏まえて,もう少し議論を深めてみましょう。

マックス・フェルケル(Max Völkel)氏によれば、PKMという用語は1987年にまでさかのぼることができます(『Personal Knowledge Models with Semantic Technologies』2011,カールスルーエ工科大学経済学部学位論文)。

同論文によると,『National Library of Medicine』(U.S.,Board of Regents,1987,P.40)に「コンピュータベースのPKMは,多くの重要なリソースを組み合わせ統合することが出来る」と書かれていて, パーソナル・コンピュータの普及を見越したPKMの展望が述べられています。
また,PKMが情報資源の組み合わせによる統合を可能にするという指摘にも注目しておきたいと思います。

2-2 PKMの定義

そして、前に紹介した1999年のJason Frand & Carol Hixon「Personal Knowledge Management」で,PKMの概念の骨格ができあがったわけです。

同論文によってあらためてPKMの定義を示しておきます。

アンダーソンスクールで考えられたPKMは、個人として重要だと感じる情報を整理・統合し、個人の知識基盤の一部とするための概念的枠組みである。ランダムな情報の断片を、体系的に応用できるものに変え、個人的な知識を広げるための戦略を提供するものです。

Jason Frand & Carol Hixon「Personal Knowledge Management」

つまり,PKMは情報を統合する。すなわち,ランダムな断片的情報を体系化し知識を拡大する戦略をもたらすのだ。というわけです。
ここにPIMからPKMへという論理的転回を見ることができます。
※注意していただきたいのは,歴史的にPIMからPKMに移行したという意味ではありません。

そして,その後のPKM研究の蓄積をバックに,欧州標準化委員会(CEN)という公的機関が正式にPKMの定義を行っています。
※CENは欧州の標準化組織で、製品、材料、サービス、プロセスに関する欧州規格や技術文書の開発のためのプラットフォームを提供しています。

個人が、自分が何を知っているか、そして誰を知っているかについて責任を持つことを支援するために、しばしばそれまで構造化されていなかった知識を整理するための概念、規律、ツール

Allan, Heisig, Iske, Kelleher, Mekhilef, Oertel, Olesen, and (ES), 2004, part 5, p.12
(フェルケル前掲論文より)

ここでは,PKMによって知識が構造化されるという論理を押さえておきたいと思います。

2-3 PKMの社会的背景

次に,あらためてPKMの社会的背景を考えてみたいと思います。

先回のnoteで言及したように,1999年のJason Frand & Carol Hixon氏の論文に影響を与えたのが,野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』のSECI(セキ)モデルでした。

このモデルでは,知識の外部化暗黙知から形式知へのプロセスが主張されたわけですが,その主張の背景には,当時の経済体制の変容がありました。

先回は,それを産業資本主義の変容(産業の高度化)としましたが,今回はもう少し議論を深めたいと思います。

(1) ナレッジマネジメントについて

1958年,ピーター・ドラッカー は,いち早く,職場で知識を開発し利用する人に対して,ナレッジワーカー(知識労働者)という用語を使用しました。

また,K.North 「Produktive Wissensa」(2007)は,ナレッジワーク(知識労働)を非物質的な結果を伴う知識に基づく仕事と定義し,価値創造は知識の処理,生成,伝達に基づくと述べています(フェルケル前掲論文より)。

すると,その知識労働者の生産性の向上が課題になります。

ドラッカー(1999)はつぎのように予測しました。
 ※「Knowledge-worker productivity: The biggest challenge」(California Management Review 41-2)

21 世紀におけるマネジメントの最も重要な貢献となるのは、知識労働者の生産性を向上させることである。・・しかし、その方法は、肉体労働者の生産性を向上させた方法とは全く異なるものである。

同上

ここでは,知識労働者を肉体労働者に対比していますが,このような知識労働者を基盤にしたことで,西欧の企業に対して日本の企業が成功を収めた原因を追及し,欧米の経営学・企業経営に多大な影響を与えたのが,野中郁次郎氏らの『知識創造企業』でした。

(2) 認知資本主義の進展

野中氏らの経営学の発想は,1970年代から現在に至る資本主義体制の形成と軌を一にするものでした。

そのような資本主義は認知資本主義(記号資本主義)などと呼ばれています。

その背景には,テーラー主義に基づいたフォーディズムから,ボストフォーディムへの転換がありました。

労働を細かく要素ごとに分解して,時間ごとに労働者に割り振る科学主義的労務管理の方法がテーラー主義(テーラーシステム)です。
テーラー主義を取り入れて大量生産・高賃金を実現したのがフォーディズムです。

しかし,単純繰り返し作業であるテーラー主義に対する労働者の忌避や,個性的消費行動へという消費動向の変化などによってフォーディズムは危機に陥り,1970年代にボストフォーディムという生産体制に移行します。
ポストフォーディズムにおいては、労働者のコミュニケーションが推奨され,ボトムアップで企業に貢献する事が求められます。
言い換えると,労働者が自らの知性や感性、創造性といった非物質的な能力を、不安定で断片的な労働条件のもとで切り売りするような生産体制です。

※以上は,「フォーディズム -基礎研WEB政治経済学用語事典」,河野真太郎「学習社会とポストフェミニズム」(越智博美・河野真太郎編著『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』)などによる。


ポストフォーディズムがトヨティズムとも呼ばれるように,欧米の企業がフォーディズムの危機に対応出来なかったのに対し,いち早く労働者の自発性にもとづく生産体制をつくりあげたのが日本企業でした。

これを西欧の科学主義に対して日本の個人の暗黙知から企業の形式知へという理論を全面に押し出したのが,『知的創造企業』であり,だからこそ,それが大きなインパクトを与えたわけです。

先回述べたように,同書は,「当時の日本企業が成功を収めたのは,体験に根ざした知識労働者の個人的知識が源泉になったからであり,それが今後のイノベーションのもとになる」と主張していました。
※英語版副題が「日本企業におけるイノベーションの力学」と付けられたのも頷けるところです。

他方,ポストフォーディズムのもとでは,コミュニケーション労働絶え間ないスキルの獲得が要求されます。
それは,余暇時間や消費活動を含めた全人格が労働者の資質の要件となったことを意味します。
そして,フォーディズム時代の完全雇用形態はくずれ,雇用は不安定化し,非正規労働者が増加し,労働者は常に潜在的な失業状態に置かれます。

技術哲学者のベルナール・スティグレールは,これを全般的プロレタリア化と呼んでいます(李舜志『ベルナール・スティグレールの哲学』)。

このポストフォーディズムの生産体制に適合的な情報管理の探究が,PIMやPKMにほかならないことは,いままで述べてきたことから理解していただけるのではないかと思います。
※また,タスク管理やプロジェクト管理の方法を勤務時間外に探究するのも,労働時間の余暇への食い込みの表れであるといえます。

2-4 PKMの代表的な方法論

さて,PKMをめぐる議論やアプリの開発は,急速に発展して現在に至るわけですが,その経緯は先回のnote 前編で述べたので省略し,ここでは,具体例をいくつか挙げて,PKMの知識管理の特徴を明確にしたいと思います。

(1) フェルケル氏によるプロトタイプ

先のマックス・フェルケル氏は,前掲論文で自分が開発したPKMシステムを紹介しています。
そのPKMシステムは,概念的データ構造(CDS)モデルに基づいて,セマンティック・ウェブ技術を用いて氏が作成したツールです。
そして,このモデルとツールを提示して,そのコストと効果を評価したのがフェルケル氏の博士論文『セマンティク技術を用いた個人知識モデル(Personal Knowledge Models with Semantic Technologies)』です。

このPKMシステムは,評価用のプロトタイプなので公開されているものではありません。
なので、PKMシステム自体の説明は省略しますが,CDSモデルの骨格を説明すると少しイメージがわくのではないかと思います。

CDSモデルは次のようなものです。

(1) シンプルで表現力豊かなデータモデル。
(2) 文書、マインドマップ、ハイパーテキスト、セマンティックWikiなど、PKMタスクに使用されるツールの認知モデルに見られる関係を統一する小さな関係オントロジー
(3) 構造化テキストのための交換フォーマットと、それに対応するWiki構文。

前掲論文

つまり,現在のPKMシステムの重要な構成要素である,文書マインドマップハイパーテキストセマンティックWikiを取り入れたモデルです(Obsidianにもほぼ搭載されている)。

しかし,わたしがこれに注目するのは,そのPKMシステムが何に着目したのかが興味深いからです。
そこで,以下同論文に従って,このPKMツールの目的を紹介したいと思います。

一言で言うと,ナレッジキューを用いて,個人の負担を軽減した,より効果的なPKMシステムを作れないか,というものです。
キュー(cue)とは,何かを想起する手がかりのことで(リマインダーの役割を果たす),以前に経験した知識を再活性化させる刺激という意味で用いられ,ナレッジキューは記憶の補綴物ほてんぶつとして機能します。
たとえば,「私は今この赤いペンを持っているが、これは今夜、ミュラー博士の癌研究に対する考えを調査することを思い出させるはずだ」という例があげられています。
この場合,赤いペンがナレッジキューです。

重要なのは、ナレッジキューが何らかの知識を念頭に置いて作成され、作成者の頭の中で後でその知識を再び呼び起こすことを目的としていることである。
知識の手がかりという概念は、たとえ知識が含まれていなくても、外部表現がいかに有用であるかを説明するものである。知識の手がかりは、他人には意味をなさないかもしれないが、作者の頭の中では何らかの知識を呼び起こす。

同上

そして,デジタル・ナレッジキューの場合は,

デジタルナレッジキューはコンピュータに保存され、検索することができる。
コンピュータ上では、ナレッジキューは、ファイル、ファイル名、あるいはファイル名の一部のテキストのスニペットとして表現することができる。
また、フォルダであったり、ある既存のファイルがある既存のフォルダに入れられたという事実であったりする。
この点で、情報の整理と接続はそれ自体が知識の手がかりとなりえる。
実際、コンピュータサイエンスでいうところの操作可能な状態であれば、どのようなものでも知識の手がかりとして機能する。
ナレッジキューは、一種のコンテンツとして、あるいは他のナレッジキュー間の接続として表現することができる。
デジタルナレッジキューには、文書、画像、データベース、実行可能プログラムなど、数え切れないほどのデジタルファイルを含めることができる。
デジタル知識モデルは何度でも修正することができる・・。

同上

このように,ファイル自体,ファイルの名称・メタデータ,フォルダのみならず、それらを整理しリンクさせるという行為自体まで,それが以前の知識を想起させる手がかりとして機能すると考えるのです。

この論理に,PKMの活動が,外在化できない暗黙知も形式知に変え,あらたな知識を創発する契機があることをみることができると思います。

(2) KJ法

次に,もう一つのPKMの具体例として、川喜多二郎氏のKJ法を取り上げたいと思います。

KJ法は、情報の分類に止まるものではなく、情報から新たな知識を生み出すことを目標とするという点でPKMであると言ってよいと考えるからです。

例えばKJ法でいう狭義のKJ法の核心は、ラベル集め表札づくりですが、それは「既存のカテゴリーによって〈分類〉することなく、データそのものを語らしめ、集められたラベルが何を言おうとしているのか考えることで概念を形成」する作業です。
(これは、質的研究法のグランデッド・セオリー・アプローチにも通じるものがあると思います)。

KJ法の普及活動を行っている教育・研修団体である霧芯館のブログで,霧芯館を主宰している川喜田晶子氏は、このような技法をアーティスティックな科学性と呼び、つぎのように述べています。

KJ法は、〈科学〉の概念と同時に〈個性〉の概念をも大きく揺さぶります。
- データに対する放恣な解釈や自己主張でもなく、既成の概念のアテハメでもなく、データそのものをして語らしめることから生じるKJ法作品と作者の個性をとても大切にします。
- だからといって、この一種東洋的な深みをもつ方法は、決してあいまいさに終始するものではありません。
- 技法そのものに緻密に組み込まれた人間性への豊かな洞察のおかげで、私たちは、明晰さとあいまいさの巨大な振幅を自然に往還しながら、〈創造〉の醍醐味を味わうことができます。
- 自身の発想の根拠・プロセス・産物がガラス張りになる明晰さ。
- その明晰さに刺激されて連想的に湧き上がるアーティスティックなやわらかさ・あいまいさが、さらなる明晰な産物を生み出そうとする躍動感。
- 明晰さとあいまいさばかりではありません。
- KJ法においては、しばしば相反する二つの能力や領域がフルに駆使されます。
- 意識と無意識、理性と情念、論理と感覚、個と全体、集中と放念、収束と発散等々・・・。
- これら明晰な輪郭の強い領域と、アーティスティックな領域とのコンビネーションによって、自身の豊かに更新されてゆく感触があればこそ、単なる技法としての有効性を超えて、KJ法が多くの人々を惹きつけてやまないのだと考えられます。

霧芯館―KJ法の解説

色々興味深い点があるので,長々と引用しました。ここでのポイントを列挙すると,

  1. 個性個人の人間性(主体性)の重視

  2. 野中郁次郎氏の「無意識」、マイケル・ポラニーの「方法論」としての暗黙知にも通じる東洋的深みをもつ方法

  3. 明晰な輪郭の強い科学的領域アーティスティックな領域のコンビネーション

  4. 創造性とそれによって個人が更新されていく再帰性

これらがKJ法の魅力である。
※これを実際に身につけるためには、それなりの努力、修練が必要な訳ですが・・

世に多数出回っているPKMの言説がPKMの性質をそこまで考えているのかというと,そこまで一般化できるとはいえないと思いますが,個人的には,ここまで考えることによってこそ,個人情報管理(PIM)に対して個人知識管理(PKM)をはっきりと差異化することができるのではないかと考えています。

(3) 研究ツールとしてのPKM

そして,研究者としての私の立場から,PKMツールとしてのObsidianを用いて何を行うかといえば,情報(文献・資料)を収集して情報間に関係を発見してネットワークを作り,さらに,メタレベルでの関係(たとえば,社会的・政治的構造)を構築する。その作業の工程を通じて構築された情報空間から新しいアイデアを生み出す。

これは研究者なら誰でも日常的に行っていることで,たとえば,

歴史叙述にあたって研究者が行なわざるをえないことは、無限にある事象の中から特定の事象を選びだすことで、ある重要性の尺度でウエイトづけたり、その選びだした特定の事象群の間に、因果関係や機能関係を想定したりすることである。

広田照幸『陸軍将校の教育社会史 上』

という解説もあり,これをコミックのセリフで端的に語ってもらうと,冒頭のエピグラフの「考えろ。」になります。

このような活動をささえるプラットフォームがObsidianなどのPKMアプリであると言えるでしょう。

3. PIMとPKM/PKGの関係

以上を踏まえて,PIMとPKM,さらに追加でPKGとの関係をまとめたいと思います。

3-1 共通点

(1) 同様の時代性と問題関心

PIMの研究のきっかけになったのは,1995年のBarreau氏の研究からで,同年,野中郁次郎氏らの『知的創造企業』が出版されています。また,PKMのきっかけになったJason Frand & Carol Hixon氏の論文が1999年です。つまり,両者の概念の登場は同時代でした。

そして,Barreau氏の論文は,企業におけるPIMの役割と貢献という経営学の立場からの研究で,ビジネススクールでの実践に基づいているのがJason Frand & Carol Hixon氏の論文でした。その意味で,PIMとPKMはともに認知資本主義の発展に対応する知識労働者の生産性向上という問題意識が背景にあったわけです。

2015年のPIMの実践報告書『Blue Ribbon Panel Consensus Report on Better Practices of Personal Information Management』では,対象読者層として,研究者,次に,教師トレーナーアドバイザーをあげ,そして,PIMを実践しなければならないすべての人びととして以下を挙げています。

・PIMのより良い実践に向けた実践的なヒントやテクニックを求めているホワイトカラーのプロフェッショナルたち。パネリストは、特にこれらの人々をターゲットにするように言われた。
・この提言は、主婦や定年退職者など、仕事を効率的にこなすだけでなく、自分らしく生きるために情報をますます管理しなければならない、ほとんどすべての人にも当てはまる。

同上

ここで明白なように,2015年の報告書でも,ホワイトカラーのプロフェッショナルを「特にターゲット」にしています。
そして,その対象者に向けて,どのような実践を推奨すべきか,推奨すべきでないのかを具体的に提示することを目的にしたことです。
このように企業で仕事をする知識労働者(ナレッジワーカー)を対象とした実用的な検討課題にもとづいて行われたのが、PIM研究の推移でした。

一方,PKM研究でも,ドラッカー→野中郁次郎→ビジネススクール→企業への拡大という基本的な流れがあります。そして,日本においても,川喜多二郎氏のKJ法が,企業での研修で盛んに採用されるようになっていきました。

※情報資本主義を予言した梅棹忠夫氏が1969年に『知的生産の技術』で生産という語を使用したのも同様の文脈で捉えることができると思います。

このように,認知資本主義のもとで,それに対応すべく車の両輪のように,情報管理の実践・研究をおこなうPIMと,知識管理の実践・研究をおこなうPKMが同時並行的に進展していったのです。

PIMにおいてもPKMにおいても,ナレッジメントという語が使用されるのも経営学的発想に基づいていると考えられます。

ただし,フェルケル氏によれば,ナレッジメントとは,「一般に,目標を設定し,行動を確認し,実行し,目標に到達するまでこの制御ループを繰り返す体系的なアプローチである」(前掲論文)とされ,より幅広い一般化された意味で捉えられています。

それは,PIM研究・PKM研究共に,しだいに研究対象・受容対象の範囲を拡大していったことにも影響を受けていると思います。

たとえば,上記のPIMの2015年報告書の引用部分後半のように,「自分らしく生きるために情報を管理しなければならない」段階に入っていることを踏まえ,ほとんどすべての人にもあてはまるとしています。

この方向は,さらに全面に押し出されて,2022年のWilliam.Jones他「Personal Information Management」では,「PIMとは,人が人生のさまざまな目標 (日常的および長期的,仕事関連のものとそうでないもの) を達成し,人生のさまざまな役割と責任 (親,配偶者,友人,従業員,コミュニティのメンバーなど) を果たすために必要な・・実践と研究」として,対象者をすべての人びとに拡大しています。

このような対象者の拡大は,Workshop にも反映しています。
2015年の報告書を踏まえたPIM2016 の後,久しぶりに開催されたPIM2022は,Jones氏を中心に「情報と情報ツールを活用して高齢化を成功させる」というテーマを掲げました。

このテーマのもとで,高齢化にともなう記憶などの認知機能の衰えを,PIMを外部記憶としてどう補うかという点が討議されました。

(2) 方法論の相互滲入

PIM研究が情報管理の方法論を進化させていけば,個人のニーズや,情報を獲得し,整理し,維持していくのは個人の知識であるという外部性の論理を取り入れざるを得なくなっていきます。

たとえば,PKMの手法としてフェルケル氏はナレッジキューに着目しましたが,その具体的操作は,PIM活動として行われるでしょう。

一方,PIM活動で紹介したマッピングについて,Jones前掲論文では,次のような事を述べていました。

ファイリングシステムのフォルダ(紙であれデジタル情報であれ)、デスクトップ(物理的であれ仮想的であれ)のレイアウト、情報アイテムの名前、キーワード、その他のプロパティの選択はすべて、ニーズと情報の結びつきを助ける観察可能な織物の一部を形成する

同上

これを知識キューとして捉えることも可能でしょう。また,

マッピングの大部分は、個人の記憶の中に仮説として存在するだけである。マッピングの大部分は潜在的なものであり、外部でも内部でも、どのような形でも実現されていない。

同上

このことは,PIM活動暗黙知が関わっていることを示唆しています。

3-2 PIMとPKMの関連

3-2-1 「情報」と「知識」

このようなPIMとPKMの同時代性,相互浸透を踏まえた上で,両者の差異を押さえるとすると,その根拠はどこに求められるのか?

それは,当然,InformationKnowledgment の違いなわけで,PIM概念とPKM概念に含まれる情報知識について確認しておく必要があるでしょう。

両者の概念を押さえる場合には,前のnoteの前編で紹介したDIKWピラミッド理解のスペクトラム(理解の段階)という図式を前提に議論するのが簡便です。
DIKWは、情報科学および知識管理で広く使用されているモデルであるからです。

※このモデルの範囲を越えて考えようとすると,情報学の広大な分野に入りこみ,たとえば西垣通氏や大黒岳彦氏の情報理論などに言及せざるをえなくなります。

ただし,DIKWをピラミッドの階層構造として捉える考え方に対しては,さまざまな批判があり,その内,先回はヴェリチコフ氏の議論を取り上げました。

DIKWピラミッドを,データから情報が,情報から知識が導き出されると単純化して理解するなら私も賛成できないので,おなじくDIKWの段階的区別をしているネイサン・シェドロフ(Nathan Sedroff)氏の理解のスペクトラムの方をモデルにして,情報と知識の関係を考察するのが妥当でしょう。

先回のnoteの図を,もう一度示しておきましょう。

理解の外観図




シェドロフ氏がもともと使った理解のスペクトラムは,日本では理解の段階,あるいは理解の概観図として言及されますが,境界線や範囲が明確でない状態が連続しているさまを表現するスペクトラムという本来の表現の方が,その内容をよく言い表していると思います。

つまり,このモデルは,データ情報知識知恵へとスペクトラムな形態をとりつつ高次化していくというものです。
ただし,それぞれは排他的なものではなく,再帰的に相互が循環しながら,しだいに高次な段階へと変容をとげていくものとしてわたしは理解しています。
なぜなら,情報そのものが外部の知識を要求し,知識がなければ管理出来ないからです。

たとえば、デザイナーのakiramotomura氏は,「情報と理解」というnoteでつぎのように述べています。

「データ」→「情報」→「知識」→「知恵」とスペクトルの右へと進むにつれて、文字や絵といった外の世界において表現可能な形から個人の理解というコンテキスト内の見えない形へと変化していく。
ここで示されている「知識」や「知恵」は、個人の中に存在するものであり、それらが獲得された体験の種類、頻度、練度、場所、時間といった変数によってそれらの在り方は変容すると考えることができる。

同上

この見解も取り入れて,あらためてわたしなりにもう少し細かく解釈をすると,つぎのようになります。

意味を持たないデータが,何らかの意味を持つ情報に変化し,その外部の情報を個人が自分のための情報として理解して意味づけしたときに,個人にとっての知識となり,それが共有されると知恵(コミュニティに共有された記号体系)となる。
ただし,情報と知識は相互に循環して高度な知識へ発展していくのであって,不可逆のものではなく再帰的なものである。

3-2-2 PIMとPKMの関係

上記を踏まえると,PIMの情報とPKMの知識は,情報から知識への論理的な階梯として捉えることができると思います。

そして,PIMは情報の技術的運用を通していかに情報の管理という実践活動を行うかに焦点があり,PIMを包含して,その実践活動の根拠をなすニーズや知識といった外部環境を含む個人の知的活動全体がPKMであると捉えられるでしょう。

3-2-3 PKGの性格

ところで,先回のnote 後編で議論したグラフ理論を背景としたPKG(Personal Knowledge Graph)は,PKMの工学的発展形態と捉えることができます。
ですから,広くPKMの範疇に含められると思いますが、PIMとPKGについては,次のような指摘があります。

PKGはまた、Personal Informamation Management(PIM)の一連の作業と関連している。
どちらも個人情報の組織化を扱うが、PIMの主な重点は集中化と制御であり、PKGは実体とその関係から意味論(semantics)を捉えることに重点を置いている。
したがって、この2つは補完的な努力と見なすべきである

Krisztian Balog and Tom Kenter「Personal knowledge graphs」

PIMは,「集中化と制御」という情報の管理に重点があり,PKGは,情報間の関係に含まれる意味を捉える。
それが,PKMの知識の内容を表すことは,2-4-3-(3) 研究ツールとしてのPKMから理解できると思います。

3-3 アプリ中心主義からデータ中心主義へ

そして,もう一つ押さえたいのは,PIMの議論で紹介した情報の分散化という問題です。
これは,メモやノートなどのアナログ環境や,デジタルアプリにデータが分散化してしまっているために起こる問題ですが,これがPIM研究を促したという側面もあります。

それを踏まえ,先のAgendaは,柔軟なデータベースを作ることによってさまざまなデータを一元的に管理しようと試みました。
そして,Stepan Pachikov氏が2000に発案して,2008年に公開されたEvernote によって,データの一元的管理の方向が進展しました。

現在のNotion  や Obsidian などのアプリはその流れを汲むもので,それによって,さまざまなアプリに情報が分散しているという問題を踏まえて探究が行われてきたPIMの役割は相対的に低下し、PIMという言葉がしだいに駆逐され,PKMに軸足が移った訳です。

ただし,Obsdisian にテキスト・PDF・画像・ビデオなど多様なデジタルメディアを保存できると言っても、その前提には、それぞれバラバラなデータ形式のメディアを作成・保存・閲覧するアプリが存在しているわけで,その問題が解消されない限りは、アプリ中心主義は克服されません。

※そして,EvernoteやNotion などの統合アプリ自体の操作手順についてのセミナーや書籍も,複雑なアプリの操作性を紹介するPIM活動の一つとしてその役割を果たし続けています。

ですから,多様なメディアに情報がいまだに分散した状態を前提とした情報管理の方法を考察するPIMの役割が終わったとはいえないでしょう。

さらに時代が進めば,共通フォーマットを軸にしたアプリの役割を考えていくデータ中心主義の時代が訪れるかも知れません。

おわりに

以上の考察に,Wikiで紹介されている諸論文で考察されているPIMの操作手順を追加してまとめた図と簡単な説明が以下です。
全体(そして赤)がPKM,楕円(そして青)がPIMで,PIMはPKMに包摂される。

PIMとPKMの関係

・知識は,日常生活で遭遇する情報を記憶している個人の頭の中に存在する。
・その前提となる知識,あるいは個人的ニーズにより,コンテンツを作成したり,外部のコンテンツを発見したり受信してそれを自分の知識として獲得・保存する。
・その情報を探索しやすいように,情報間に関連付けして組織化したり,重要な情報を整理してデータベース化して配置する。
・ニーズに基づいて重要な情報を閲覧したり,データベースをソートしたり,検索する。
・その過程で不必要な情報は削除するなどのメンテナンスを行う。
・これらを再帰的に繰り返して個人の情報空間が形成される。
・情報空間から新たな知識が創発され,アウトプットして知識が利用される。

このように,PIMは,PKMに包含され情報管理の技術的・実践的側面を担うと考えられます。

※2008年の報告書でも「PIMは目的のための手段だ」という言い方もされていました(前編-1の引用文を参照して下さい)。

一方,PKMはすでに個人が持っている知識(暗黙知・形式知)を前提とし,ニーズに基づいて必要となる情報を収集し適切に配置・メンテナンス・探索する作業(PIM)を通じて新たな知識を作り上げていく(創発)。
また,その知識を利用(再利用)してアウトプットがおこなわれます(例えば文章化・執筆活動)が行われます。
その執筆活動は,PKMの内部(PKMアプリ)で行われる場合も,またWordやエディタなど外部のアプリで行われる場合もあるでしょう。

個人の知識を構築していく全体の体系がPKMである。

これが,今回,PIMを検討した結果,あらためて確認できた結論です。

【補足】

認知資本主義のもとで,労働者としての個人に対しより高いスキルが求められています。
そのとき、PIMツールを適切に操作するためには,企業や組織から求められる要求に対応できる情報管理(PIM)が必要で,そのためには過去の知識や経験,自分の周辺にある膨大な情報を適切に選択し,その情報を関連づける知識管理が必要であり(PKM),そこからあらたな知識を生み出してアウトプットしなければならない。

それは,一面では個人が認知資本主義の経済構造にガッチリ組みこまれていることを示しているが,他方では,PKMにより自分の知識体系を構築して対抗する橋頭堡きょうとうほ(戦略拠点)となりうるでしょう。

その上で,個人の知からパブリックな知(知恵)に転換できるかどうかが問われるのではないか?
その時,現在進化しつつある統合アプリ,そしてデータの標準化,共有の方向という,アプリ中心主義からデータ中心主義への方向は,それを後押しする手段となるのではないかと思います。

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