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嫦娥奔月 月を見て思う他人の光と自分の光

暑い日が続くが季節は秋に向かっている。秋といえば中秋の名月である。中国の伝説では、月に女性と男性、一羽の兎が住んでいるのをご存知だろうか。

嫦娥奔月

太古の中国の話、あるところに嫦娥という絶世の美女がいた。彼女の夫は、后羿(こうげい)という弓の名人である。能力がある男がモテるのは古今東西同じである(無理ゲー社会

あるとき、空の太陽が十個に増えてしまった。太陽を増やすとは、さすがに中国はスケールが大きい。それも十個である、今年の日本も暑いがそれどころではない。太地は焼け住民はおおいに苦しんだ。

嫦娥は后羿に言った。
「もう暑くってたまらない、あなた何とかしてちょうだい」
美人がきついのも時代や国を問わない。
「何とかすると言っても」気乗り薄だ。
「太陽を落としたらいいのよ。もううざったいたらありゃしない、
 あなた弓の名人でしょ」
「落とすと言っても、何個落とせばいいのかな」
「ぜんぶやっちゃってよ、暑いし汗はかくし、お化粧は崩れるし、この際だ
 から全部落とせばいいのよ」
「そんな・・・全部落としたら昼がなくなってしまわないか」
「いいのよ、月があるでしょ、誰も困らないわよ」

「それに夜ばかりだったら、あなたがもっと頑張れるでしょ」と声が甘くなる。この会話は想像だが、夫婦の間は昔から同じようなものだから、あながち間違っていないと思っている。

さて后羿 、最後の言葉が気になったが、みんなが困っているからやってみるかと崑崙山に登った。弓を取り九つの太陽を射落としたところで考えた。やっぱり、全部はダメじゃないか。夜ばかりだったら、 嫦娥の流し目を思い出した。そこで、残った一個の太陽に「真面目やれよ」と言って帰った。太陽は一つになって毎日決った時刻に昇るようになり、住民はとても喜んだ。西王母も喜んで、后羿に褒美として不老不死の薬を与えた。

嫦娥と后羿

私たちは隕石の恐ろしさを知っている、もし太陽が落ちてきたらどうなると怖くて考えられないが、中国人それも古代人なので発想が大きい。 后羿は、意気揚々と家路に着いた。「西王母様も喜んでくださった。嫦娥の言うことを聞いていたら間違いない。ご褒美も貰ったし喜んでくれるだろう」規格外れの英雄は、小さなことを考えて足取りが益々軽くなる。

ところが、家へ帰ると嫦娥が出てこない。
「帰ったよ」
「まだ一個残っているわよ、どうして言うとおりしてくれないの、私のこと愛してないのね」
家の奥からなじる声が聞こえる。困った后羿は、言い訳を始めた。
「西王母様は褒めてくれたのだよ」
「西王母様がおっしゃたの、だったら仕方ないわねぇ」
と嫦娥が顔を出す、少し機嫌がなおっている。

「おまえのアイデアだよ、と言ったら、おまえのことも褒めておられたよ」「まぁ、私のことも、そんなこと言わなくていいのに」
また機嫌がよくなる。
「驚くなよ、ご褒美に不老不死の薬を貰ったんだ」
「凄いわ、でも、あなたがもう飲んだのでしょ」
声の調子が下がったのは気のせいだろう。
「いや、おまえと別れないといけなくなるから飲んでないよ」
「どうするの」
「おまえに、持っていて欲しいのだよ」
「あぁ、あなた愛してる」
と丸くおさまったかどうか、あらすじ以外はフィクションだが、嫦娥奔月という伝説の前半である。

イブはアダムに林檎を食べさせた、パンドーラーは箱をあけてしまった、嫦娥も薬を飲んでしまう。理由はいくつかあるが、薬を飲んだ嫦娥は不老不死になり月に寂しく暮らすことになる。

嫦娥が去ったのを知った后羿が空を見上げると、その日の月はひときわ明るく嫦娥の影が見えるようだ。后羿は、嫦娥の好きだった庭にテーブルを置き、月で后羿を思っているはずの嫦娥を祭った。こうして、人は月にいる嫦娥を偲ぶようになったのである。

(実はもうひとりの男が月にはいる、その男と嫦娥が二人きりと知ったら、 后羿は月を射落としたかもしれない、月はまだあるので、后羿はそれを知らないようだ。北京の疫病で大活躍するウサギ、月兎も月にいる。その男と兎のお話はまたの機会に)

自分の光、他人の光

月は、地球から384,000キロメートル離れた、直径3,474キロメートルの岩の塊である。米国と中国の国旗と探査機はあるかもしれないが、もちろん嫦娥もウサギもいない。地球とは異なり炭素と窒素が少ない。月はそのようなものだと誰もが知っている。

月は太陽の光を反射して輝いている、太陽がなければ月は光らない。后羿が太陽をすべて射落としていたら、嫦娥のいう「誰も困らないわよ」ではすまなかっただろう。現代人は、后羿の良識に感謝しなくてはいけない。

月がみずから光を出していないと知っても、人は美しいと見上げる。みずから輝くか、太陽の光を反射して輝くか、どうでも良いことだ。空にあって光っているのは恒星と惑星と彗星と人工衛星である、光を出しているのは恒星だけだ。おおいぬ座のシリウスと金星が見分けられなくても、さそり座のアンタレスと火星が区別できなくても何の問題もない。どれもが夜空に美しく輝いている。それでいい。

地上にも月と似た人がいる。自らは光を出さずに、他人の光で自分を大きく見せようとする。その人は他人を批判するだけだ。TVや雑誌に出て、いつもいつも他人の批判ばかりしている。批判する相手が大きいほど、自分が脚光を浴びることを知っているからだ。

自ら光をだそうとする人もいる。例えば、パラリンピックやオリンピックのボランティアの人達だ。無私の行為は小さくても、選手達の感謝や賞賛の声がSNSに上がる。夜空の星はただ光っている、だから他の光でも美しい。人の世界は違う。他者の光を借りて自分を光らそうとするのは、美しくないのである。

自分で光ろうとするか、他人の光を利用するかは自分で決められる。世の中は自ら光ろうとする人たちで前に進んでいる。


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