俺の話 その3

十二年ぶりに帰国して、まさに浦島太郎。お付き合いのあった代理店や制作
会社に行くも各所随所で「日本で何するの?」って質問はともかく、「LAにいない日本のカズさんって何を頼めばいいの?」はきつかった。

そうこうしているうちにLA時代の友人知人達を通じてアメリカの広告やMVの仕事が来るようになる。なんだよ、とりあえずやってけるじゃん!と思った翌年に東日本大震災。海外からの撮影が激減、、、また仕事がなくなる。(44歳)


まぁ、それでも捨てる神あれば拾う神あり、随所で助けてくれてきた浪花のK社長と一緒に企画してたTV番組で面白から出ちゃいないよと。というわけで何故かTokyo MXで読者モデルを並べてグダグダ喋る番組のMCをやったり。別のTVの制作会社とも縁があって外部プロデューサーをやるように。

気がつけば二日おきにお台場、汐留そして渋谷で企画会議やってました。そもそも日本にいない上にTVを見ない私がゴールデンの企画なんててやっていいのかと思いつつ、これはこれで楽しかった。本当に今までと全く違う世界で仕事の進め方もそうだが発想の仕方がそもそも違う。企画力と会議の仕方はここで学んだ気がする。こっち方面で知り合った人達は私が海外にいたこととか英語喋れるとか知らない。

この頃K社長によく言われていたのが「Kazさん個人で売るのか、トボガンという会社を売っていくのか決めないとだよ」、多分この頃は俺で売っていくか、というよりそれしかないかなと思っていたかもしれない。(45歳)

それでも経済的には2011〜12年ごろは本当にきつかった。日本の暮らしには慣れないし仕事も増えないしで、、、それでも暇しててもしょうがないので友人知人を集めて東北ボランティアに毎月のように行っていました。ロケバスとかにも協力してもらって最大で2000人の炊き出しもやった。この時に本当に沢山の人と出会えて今につながっています。

その4に続く


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