俺の話 その4

そうこうしているうちにアメリカからPVの仕事がちょこちょこ入るようになってきて、中でもアブリル・ラビーンやカルヴィン・ハリスなどの仕事はその後のトボガンの看板作品となり、今に至るまで紹介時の枕詞に使ってもらえる。

で、この仕事を持ってきてくれたのが、LAでの貧困住み込み時代に知り合った男。彼とは当時、金がないラップのPVで一緒にPAをやっていたんですが、いつの間にやら大手の音楽系エージェントの副社長になっていました。彼からはかなり多くの人を紹介してもらったなぁ。

日本でのTV業界から派生したTV風広告みたいな案件の相談やキングコング西野君のNY個展や本田のサッカー教室をLAでやったりなど、まぁなんだかんだでいろんな相談が来るように。

日本から海外に、海外から日本に、広告や映像がらみを中心に、それはそれは国内外から雑多に相談が来るようにってきた。来る時っていつも一気にくる。オフィスを帰国時に借りてたところかマンションの一室まで撤退してたんが、この際だからと本気で会社経営なるものをやってみるかと、社員を一般に募集し出した。現在の青山外苑前に引っ越したのもこの頃。(47歳)

今まで会社といっても社員は3〜4人程度だったのが、10人越えればそれなりに社長業をやらざるをえず。これはこれで楽しくなってきた。で、来た波にには全力で乗るお調子者なのはいつも通り。振り切った最初の三年は社員数も売り上げも倍々で、おいおいなんだよちょっと本気になったらなんでもできるじゃん!

ついに来た俺の時代!行きたいところにふわっと行けるぞ!アムステルダムおもしれー!会社作っちゃえ! 優秀なシンガポール人社員が家庭の事情で帰国する。それならシンガポールに会社作っちゃえ〜!住みたいとこ行きたいとこにガンガン進出するぜ!何度目かよくわからない俺すげぇ〜モード!!(50歳)

と思ったのも束の間、あっという間に拠点4箇所で社員数30人を超える規模になるという急速な拡大をうまくコントロールできず、経営の難しさに直面、色んな意味で社長の苦しみを味わった(ている)。なんとかもがいてる中でコロナ!はいはいまた来ましたねピンチが!俺悪いけどピンチのプロだからw 別にびびんね〜し。(52歳)

911、リーマン、東北震災、コロナと世の中は自分の努力や才能や日頃の行いとは無関係に理不尽なことは淡々とやってくる。それを嘆いても始まらない。そういうもんだから。与えられた環境でやれることを見つけてもがくしかない。そうすると大体新たな道が見えてくる。苦難万来、理不尽上等、人生なんてそんなもんでしょ!なかなかヌルゲーにならないから難しい。そして楽しい。

ハリウッドのスタジオと最初の会社はバイトしていた編集プロダクション時のツテ、NYの広告代理店は最初にプロデュースしたMVの監督のツテ、日本でTVの仕事や最初に大きな広告の仕事をくれたのはLA時代のクライアント、海外アーティスト案件はスタジオ時代のPA仲間、本田の仕事はボランティアを通じて知り合った仲間から、スティーブジョブスじゃないけど点と点が繋がって線になり、線と線がつながって模様になっていく。それも10年とか20年とかというレベルで。色々な局面で助けてくれた人たちには本当に感謝しかない。その人たちへの恩返しは描き出す模様だね。まさに中島みゆきw

流れるように自然体、泰然自若でいたいなと思ってるんだけど。いつももがいてるなぁ。でももがいてると誰かが助けてくれる、もしくは時代が好転してくる。やれることを与えらえれた環境でやる。

やりたいことを仕事にするんじゃなくて、どういう風に生きたいか?
仕事なんてそのための手段でしかない。

どれだけ高邁な理想を掲げても現実の対応に追われるのは世の常なんだが、理想がなくて現実に追われるだけよりはましだ。たとえそれが絵に描いた餅だとしてもだ。

さぁ、今日も張り切って現実に追われていきます。

その5?



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