俺の話 その2

その会社ではその超大手出版社から国際部という有名無実の肩書きをもらい(名刺はちゃんと日本から送ってもらった)。日本の女性雑誌にLA情報や特集ページの取材、撮影、コーディネートをやっていました。

その時に「仕事場は世界|」という海外で働く日本人女性を取材するシリーズがあったのですが、この時に出会った女性達は本当に素晴らしく輝いていて刺激を受けまくりました。そんなこんなしているうちに現地の広告系のコーディネーターと仕事もするように。

広告というかTVCMの世界なんてほとんど知らなかったけどハッタリでどうにかしていましたw かなりいい加減ですけど日本で/との仕事経験があることから大きなチームでも重宝されてかなり色々とお手伝いさせてもらいました。当時は車や飲料で外タレを使うのが流行っていたのと大型ミュージックビデオの仕事もバカスカあった。(28歳ごろ)

気がつけばプロデューサとして日本から直接ミュージックビデオやら小さい広告やらジャカジャカ受けだして、笑い死ぬほど忙しかった。なんと会社のプロジェクト番号が年50本超えるというw 私一人の個人会社で社員0ですよw まさに有頂天!(33歳ごろ)

そんな中で晴天の霹靂のような911!。半年先まで埋まっていた仕事が全てなくなった。しかも3ヶ月後には子供が産まれる!そして高速道路で事故る。運ばれた病院ですぐに死にそうにないことが確認されると動かないようにストレッチャーに固定されて(肋骨が折れてるかもしれないので)廊下に6時間くらい放置される。(34歳)

事故った興奮でやたらと頭は冴えてる。病院の廊下天井を眺めながら、仕事ない、資産ない、子供産まれる、あ、車も廃車だなぁ、、、。え、ひょっとして俺、結構大ピンチなんじゃね。今でもこの時の蛍光灯は忘れられない。いつも思うけど、この時に比べれば、生きてればなんとかなるもんだとしみじみ。

年が明けても日本の仕事の復活は遅い中でアメリカローカルの仕事がポツポツと。その流れで紹介されたNYの英語、スペイン語以外を扱う広告代理店でプロジェクトベースでいわゆる代理店プロデューサーの仕事をゲット。毎年夏だけNYに行くという素敵なバイコースタルライフでした。そしてこの時のエージェンシープロデューサーとしての経験は今現在めちゃくちゃ役立っている。(35歳ごろ)

まぁそこからはステータス問題でのごたつきなんかもあって順風満帆(?)ともいえずながらも、仕事は日米ともに復活してきて、なかなかにいいじゃん、と思いきやリーマンショックで米は大不況、超絶円高で日本の仕事も激減、またも大ピンチ(40歳)

暇なんで教育サイトを立ち上げてみたりしているうちに、仕事はまぁまぁ復活。で、なんとなく物足りなくってくる。現在を続けていればどうにかこうにかやってはいけるけど、ステージアップは難しいし、そもそもあんまりいろんなとこ行けないぞっと、、、

たまたま、妹が大病をしたことをきっかけに帰国を決意。1月に連絡を受けて4月に帰国して7月には現トボガンを設立しました。(43歳)

その3に続く



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