”動的平衡”の一部サマリーと感想

福岡伸一, 動的平衡, 木楽舎, 2009年.

体内時計の仕組み

人間は歳を取ると新陳代謝速度が緩やかになるため、体内時計も徐々にゆっくり回るようになります。これは、「完全に外界から遮断されて自己の体内時計だけに頼って「一年」を計ったとすれば、三歳の時計よりも、三十歳の時計のほうがゆっくりとしか回らず(中略)三十歳の体内時計がカウントする一年のほうが長い」ということを意味しており、私達が歳を重ねるごとに月日の流れを早く感じるのはこのためだそうです。「自分の生命の回転速度」が物理時間についていけなくなる、ということです。

バイアス

この体内時計の例のように、私達は錯覚します。ランダムな世界にパターンがあるかのように認識してしまうのです。この認識能力=バイアス能力が人間の脳に張り付いているのは、進化の過程で環境変化に対応するのに、その変化をパターンとして捉えることで生存確率を上げてきたから、ということです。このパターン化して認識する脳の癖が、逆に「自然の持つ複雑な精妙さや微妙なズレ」を見落としてしまうリスクもあります。「直感に頼るな」ということです。「直感が働きづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ、勉強を続けるべきなのである。それが私達を自由に」するのです。

人間は考える管である

本書では「胃の中は体の外」として第二章で紹介されている、動物は管であるという表現、私の最も気に入っているメタファーの一つです。「第六感は英語ではガト・フィーリングという」「意志の力をガッツという」というのは全くもって腑に落ちますね。

私感その1

全くの推測ですが、多くの動物が管になったのはそれが最も自己成長させるのに都合の良い形状であったということと、その形状でのエネルギーとなる食物補給をより効率的にするために、管の入り口に多くのセンサー(目・鼻・耳)を備えるようになったのではないでしょうか。脳が先端にあるのは各センサーへの距離を近づける、ということなのかもしれませんね。更に、管の動線を制御するためにヒレや手足などのオプションが管の周りに付与されて、進化をしてきた様子が目に浮かんできます。余談ながら日本人的感性に立つと、この管はその柔軟性やタンパク質を主成分とした構成から、竹輪を適用するのがふさわしいのでは、というのが私の持論です。私にとっては、”動物は竹輪”というほうがしっくりきます。

生命現象

「生物を物質のレベルからだけ考えると、ミクロなパーツから成るプラモデルに見えてしまう。しかし、パーツとパーツの間には、エネルギーと情報がやり取りされて」いて、「このエネルギーと情報のやり取りは織りなす「効果」」と、「その効果が現れるため」の「時間」により生命現象が成立する、と説いています。生命は効果なのです。静的にそこに存在するのではなく、常に変化し続けるエネルギーの動きなのです。あたかも静止したひとつの個体のように捉えてしまうのは、私達の頭の中にあるバイアスのせいかもしれないですね。

生命は分子の「淀み」

「生命は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思え」ても、「ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしか」なく、「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食元として摂取した分子と置き換えられている」ため、常にその淀みは更新され続けています。生命は物質的基盤=構成分子に依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」である、これを著者は「動的平衡」と位置づけています。増大するエントロピーへ折り合いをつけるための生命の仕組みとして、この動的平衡があり、それが「生きている」ということの概念そのものです。流れる川の水は一時たりとも同じことはないが、川はそこに存在し続ける、ということと同義である、と理解しました。

私感その2

ガイア説、という考え方にで俯瞰すると、インド・中近東で急速に発生したバッタの大群、エントロピー増大の法則に沿って地球環境の動的平衡のために発生した現象である、という見方ができるのでは、と直感しました(、直感を信じると危ういのは前述の通りですが)。エネルギーがバッタの群れに形を変えて現れるのであれば、そのエネルギーを捕食し取り入れる流れ(=昆虫食)もエントロピー増大に逆らわない自然な行為に帰着しうるのかもしれませんね。

私感その3

動的平衡という考え方、組織の在り方にも適用できますね。組織表上の構成人員が組織なのではなく、そこにいるメンバーが思考・行動することのみにより、組織があると言えるのではないでしょうか。人員の増減や思考・行動の変化があってこそ、組織は生き続けることができる、ということが言えるのかもしれません。

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