ぼくの仕事観について その2

どんな社会であっても、生きていく以上なんらかのかたちで仕事を引き受けて、ぼくらは生きていく。それが安い賃金であれ、比較的妥当な賃金であれ、高給であれ。それが前提なのだ。お金に縛られることは望んでいないが、お金を無視することはできない。生活の安定、精神の安定、病気やケガをしたときの医療費。そういったものはすべてお金で賄われる。そうしたとき、いわゆるワークライフバランスについて考えざるを得ないだろう。

この国の正社員の名目賃金はこの10年間で年収が100万円低下した。これからも下がると思う。どう考えても日本は落ち目である。労働力も不足する。いずれ必要に迫られて大量の移民を迎え入れることになるかもしれない。そうすると、外国出身者と日本人同士で職を奪い合うケースも出てくるだろう。いや、既にそういう状況は生まれていて、じぶんがたまたまそういう目に遭っていないということだと考える方が妥当かもしれない。

仕事のやりがい、ストレスの多寡、そして賃金の高低。ぼくは基本的にはやりたいようにやりたいのだが、そんな甘っちょろいことを言っていて、この四十路を―9月17日が誕生日で40歳になる―乗り切っていけるのか。その後、シチュエーションは今よりずっと過酷になっていくのではないか。自分は生き延びられるのか。こういった大文字の問題がどうしても脳裏をよぎることを止められない。もっと個別具体的な小さな問題について吟味して、実際に行動に移していくことが必要なことは分かっているが、どう次の一歩を踏み出すべきか悩んでしまう。もともと悩みの多い人生を送ってきたので、別にそれが苦痛に満ちているというわけではないが、しかしこのアンダーコロナ、そして永遠に続きそうな不況、人口減少社会、そういったおのれを取り巻く環境に思いを致すとき、悩みは深まる。哲学的にいえば、ぼくはストア派の考えに惹かれている。日本的にいえば、心の平安を求めて生きていきたいのだ。しかし、この修羅場で、この地獄のような人間社会で、心の平安を求めて生きていくことがどれほど難しいことか。そんなことは誰もが分かっている。もちろん、ぼくも分かっている。

こう考えてくると、完全な心の平安は、堅い信仰をもつことでもしないと、訪れそうにないと暫定的な結論が出る。では、宗教に入るかというと、それは嫌だ。ぼくは少なくとも自分の頭で考えて、それなりに妥当な判断を重ねて生きていきたいので、超越的な存在のもたらす恵みに感謝し、おのれを低く低くして生きていくという方途は選べない。そうするとまた、悩みだすところへ戻るわけだ。生きている限り、どんな仕事をしていても、どんな生き方をしていても、たとえ無職で大金持ちであっても、こういう問いはぼくの胸中を去ることは無いだろう。人間に生まれたこの因果からときに目をそらし、あるいはときに凝視して、煩悶のなかで老いつつ病みつつ、今を生きていくしかなさそうである。

皆さんはご自分の仕事観を持っていますか?それはどんなものですか?そしてそれをどうしていきたいと考えていますか?良かったら教えてください。

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