谷徹『意識の自然―現象学の可能性を拓く』を読む 第1回 序文

(前略)そもそも学問は、「Sはpである」という構造をもった判断から成り立っている。こうした判断が成立するためには、それの基礎として、認識が必要である。認識は意識によって行われる。意識が関与しないかぎり、たとえば「犬は動物である」といったきわめて単純な認識も成立しない。だから、フッサールは、認識を成立させる意識の構造を問うた。意識は、事象そのものに対応した仕方で、認識を成立させるものである。しかし、その意識はけっして単純なものではない。意識は層構造をもつ。フッサールは、高次の認識の層から遡って、いちばん根底の層にまで到達し、そこに生じている事態を捉えようとした。この事態こそが、右の事象そのものを支える最も根底的な事象そのものである。あるいは、第二の事象そのものと言ってもよい。この事象そのものの発掘は、フッサール自身が拓いた現象学の可能性だと言ってもよい。では、それはどんな事態だったか。フッサールが見出した、意識のいちばん根底の層において生じている事態は、じつに驚くべきものだった。ところが、フッサールが見出したこの事態についてはまだあまり知られていない。この事態すなわち最も根底的な事象そのものーこれを本書は〈意識の自然〉と呼ぶーがどういう事態かを解明することが必要になる。(P.8)

みなさん、こんにちは。さえきです。きょうから、谷徹さんが著した浩瀚な現象学の入門書でありまた研究書でもある『意識の自然―現象学の可能性を拓く』(1998年、勁草書房)を読んでいきます。きょうはまず序文からですが、お付き合いのほど、よろしくお願いします。

ところで、フッサールには『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(未完の遺著で死後1954年刊行)という著作があるけれど、この表題が示唆しているように、当時あらゆる学問の礎になる哲学が必要だとフッサールは確信して、それが彼の現象学だったわけです。この立場を例えばハイデガーも引き継いでいて彼の場合それは存在論になるわけです。「あらゆる学問の礎に「存在」があるんだよ、だから哲学(存在論)は根本的に大事なんだよ」ということをハイデガーは『存在と時間』(1927年)のわりと最初の方で言っていますね。

(前略)しかし、以上のように問うこと―つまり、最も広い意味に解されたものであってあれこれの存在論的な方向や傾向を頼みとしない存在論―は、それ自身さらに一つの手引きを必要とするのである。存在論的に問うことは、実証的な諸学が存在的に問うことにくらべれば、なるほどいっそう根源的ではある。だが、存在論的に問うことも、存在者の存在を追求するその諸研究が存在一般の意味を論究しないままにしておくかぎりでは、それ自身あくまで素朴で見通しのきかないものにとどまる。しかも、存在論は、存在のさまざまの可能的な在り方を、演繹によらずに構成する系譜学という課題をもっているのだが、まさにこの存在論的課題こそ、「何をいったいわれわれは『存在』というこの言葉でもって指しているのか」ということに関して、まえもって相互了解をとりつけておく必要のあるものなのである。
 だから存在問題がめざすものは、存在者をこれこれしかじかの存在者として研究しつくしてしかもそのさいそのつどすでに或る存在了解内容のうちで動いているような、そうした諸学を可能にする一つのア・プリオリな条件であるばかりではなく、存在的な諸学に先立っていてしかもそれらの諸学を基礎づけるような、そうした諸存在論自身をも可能にする条件そのものなのでもある。(後略)
ハイデガー『存在と時間 Ⅰ』(P.30-31、2003年、中公クラシックス)

まあこんな感じです。脱線しました。『意識の自然』に戻りましょう。

あらかじめ述べておけば、現象学の五つの源流とは、⑴直接経験に関わるもの、⑵志向性に関わるもの、⑶イデアリテートに関わるもの、⑷学問の根拠づけに関わるもの、⑸超越論性に関わるもの、である。それぞれの代表的な人名をあげておくと、⑴マッハ、⑵ブレンターノ、⑶ロッツェ、ボルツァーノ、ライプニッツ、⑷デカルト、ライプニッツ、カント、⑸ヒューム、プフェンダー、ということになる。これらは源流ではあるが、源泉ではない。つまり、湧出口をはっきりと特定できる源泉ではない。(略)それらは、隠れた源流である。それらが、集まってきてフッサールにおいて現象学という大河を形成するのである。(P.12)

近現代の哲学には何でもその元ネタがあって現象学も例外ではないということです。でも管見の限りでは、そのいちばん重要なことがきちんと明示されている入門書ってほぼ無いと思います。だから現象学は分かりにくい=触れにくいのでしょうね。

まとめると、本書の設定する問題は、〈現象学とは何か〉である。より具体的には、それは、以下の三点をとおして明らかにされる。第一に、現象学はいかにして成立したか(第I部)。第二に、現象学はいかなる体系をもっているか(第II部)。第三に、現象学はいかなる可能性を拓くか(第Ⅲ部)。ここで識の自然と自然の他者が問われ、形而上学への道が拓かれる。(P.16)

というわけで、序文の要点を引きました。では、次回から本文に入っていきましょう!長すぎるとか、面白かったなど感想をお寄せいただければ幸いです。それではさようなら。

(つづく)

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