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短編小説『愛の迷路のその先に』

「私は決して別れる気などはございませんから」 紗季の浮気相手の男の妻はきっぱりとそう言い放った。その両手は、膝の上で固く握りしめられている。

山神公平の隣には、ついこの間までの同棲相手、水流紗季が神妙な面持ちで座っている。 こういう場合は、相手を睨みつけるのが妥当なのであろうが、彼女にはそこまでの気の強さはない。

この妻の旦那が公平の彼女、紗季と浮気をした、というのが簡単なストーリーである。

ある日、公平がいつもより早く仕事が終わり、 紗季に連絡せずに帰ったことがあった。

「紗季、ただいま!」ドアを開けて中に入ると、喘ぎ声が聞こえる。明らかにヤッている。

そこに住んでいたのは、公平と紗季だけ、赤の他人が部屋に入ってエッチする道理はない。間違いなく彼女がヤっていると確信した公平は、落ち着いた声で、「紗季、今帰ったよ」と声をかけた。

「相手の方も聞いてもらいたいんだけど、こんなところで修羅場を演じたくないので、できれば、すぐ服を着てもらって、今日はもう帰ってください」と言葉を続けた。

10分ほど待つと男は出ていったが、公平は土手の方に立ち、男に背を向けてその顔を見なかった。「見れば恨みつらみが募るだけだろう」と思ったのだ。「誰なのか知らない方がいいだろう」とも思った。もし、知り合いだったら自分が何をしでかしてしまうのか、公平は想像もつかなかった。

部屋の中に入ると、紗季が神妙な面持ちで正座をして公平を見つめていた。

「今の男の人、好きなのか?」と、確かめるように聞くと、

「うん......」紗季は遠慮がちに頷いた。

「彼はどう言ってるんだ?」

「愛してる!って、言ってくれてる。奥さんと別れて一緒になるって、言ってくれてる」そう言う、紗季の瞳は彼の言葉を信じきっていた。

「......そうか、わかった。お前がそれで幸せになれるんなら、俺は何も言うことはない。それでいいよ」たった今まで、見知らぬ男と愛し合っていた紗季の気持ちを、公平は一番に考えていた。

「ごめんな、俺が幸せにしてあげられなくて。ぐずぐずしていて結婚もしてあげられなかった。本当にすまなかった」
仕事が忙しいことにかまけて、そういう話から、ずっと逃げ続けていたのだ。


公平は、相手がどんな男なのか?などと言うことは、一切尋ねなかった。「女は気持ちが一旦離れたら、その瞬間に愛は終わる」公平はもう随分前からそう思い込んでいた。

それから二日後、彼女は実家に帰って行った。公平は一人、彼女のいない部屋でいつものような暮らしを続けたが、 やはり、今までいた同居人がいなくなると寂しいものがあり、夜一人になると自然と涙を溢すこともあった。

それから一ヶ月ほど経って、紗季が公平に連絡してきた。話を聞くと、「彼が全然会ってくれない。連絡も取れない」と、受話器の向こうで泣き崩れている。

何でこいつはそんな愚痴を俺に溢すのか?と公平は苛立ちを覚えた。「なんで俺が、そんなことに関わらなければならないんだ。俺にはもう関係ないだろう?別れたんだから。それはお前と彼の問題で、俺の問題ではないよね?」と公平が言うと、

「私...どうしたら...いいか、...わからないの......」嗚咽混じりに訴える。

「自分で考えれば!俺には全く関係のないことなんだけど」突き放すように公平が言う。

「けれど、他に頼る人がいないの。助けて! お願い!」紗季はもう必死だ。

女からの頼みごとは絶対断らない。これは、公平が十歳の時にたてた誓い、言わば呪いのようなものだった。

そういうわけで、公平は、今彼女の浮気相手の家に一緒に来ているというわけである。

男の妻が切り出した。「......と言うことは、あなたは彼女の元恋人ということでよろしいんですね?」

「そうです!」短く、きっぱりと公平は答える。

「それであなたはどうされたいんですか?」すっかり困り果てた様子の妻は、視線を下に落として、ことばを絞り出した。

「私は別にあなたの旦那さん対して、恨みつらみはありません。自由恋愛ですから。ただ、『愛している!離婚するから。』 と言った言葉には、責任をとっていただきたい!」公平は、そう言うと、『俺はいったいこんなところで何をやっているんだろう?』少し自分自身が可笑しくなり、苦笑しながら、

「まあ、そんな男の常套手段を信じた彼女も馬鹿だと思います。けれども、愛しちゃったらしょうがないですよね。 好きな相手の言うことは全部信じちゃいますから」と言葉をただ何の感情もなく並べた。

紗季は一言も発せず、下をうつむいている。

男の妻はもう一度言った。「私は絶対別れるつもりはありませんから。あの人はもう、何回も何回も、こういうことを繰り返してるんです。自分の立場を利用して!」相手の妻の怒りは公平にも伝わってきた。

『本当に何度もなんだろうな』そう思うと、なぜだか、男の妻が哀れに思えてきた。

相手の男は当時かなり大きい電気通信会社の部長で、紗季はそこでアルバイトをしていた。

「そうですか、分かりました。紗季、お前ほかに何か言うことはあるのか?」彼女に公平が言葉を促すと、紗季は黙って頭を振るばかりだった。

結局、紗季はその男とは別れた。腹の虫が収まらなかったのか、紗季はその相手が勤めている会社に、「自分が手を付けられて、捨てられた」と暴露して、その男は降格、左遷になったと言う。『恐ろしきは、女の情念というものか。くわばら、くわばら......』


実は、紗季の浮気は、これが初めてのことではなかった。公平が勤めていたレストランに紗季が足しげく通うようになったのは、これより、約二年程前のことだった。

紗季は、ある日を境にほとんど毎日、公平の勤めるレストランに来るようになっていたのだが、「こんにちは!また来ちゃいました」と来店する度に、ウェイトレスではなく直接公平に声をかけた。

友達と二人で来ていたのだが、好き好きアプローチがすごくて、周りが呆れるほどだった。

「今夜、ご馳走作りますから、家に来てもらえませんか?」そう言われ、可愛い紗季にそう言われると、公平も満更でもなかったので、ついつい、彼女について行ったのだ。

公平が彼女の手料理をいただき、そして、彼女までご馳走になった夜のことだった。 紗季に腕枕をして寝ていると、いきなりドアが開く音がした。

公平が彼女から聞いてたのは、「この家に兄と一緒に住んでいて、兄は今日、出張でいない」ということだった。

そして、突然紗季が、「隠れて!」と叫ぶと、公平は条件反射的にパンツだけ履いて、そのまま風呂場の中に隠れていたのだが、ドアが開くと、そこには男が立っていた。

「お前、誰だ?」男は凄い形相で睨んでいる。公平は聞いていた『彼女のお兄さんかなぁ?』と思ったのだが。

「私は、彼女の婚約者です。一週間後には結婚することになっている」男は以外に冷静な落ち着いた声で名乗った。

公平はそれを聞いて、唖然とした。声も出なかった。たぶん、漫画の表現なら、頭の上に、はてなマーク、目は点になっていたことだろう。

とりあえず、公平は服を急いで着てその家を後にした。一人残した紗季のことは少し気がかりではあったが、『相手の男は取りあえずは婚約者だ。変なことはしないだろう』そう考えた。

それから一週間ほどたった頃、その男から連絡があり、「話を聞きたい!」と言う。

近くの公園で会って、話をすることになった。 公平は、作り話ではなく、ありのままの事実を淡々と包み隠さず話した。

「突然、彼女が私の勤めているレストランに二日と開けず来るようになり、誘われるがまま、そういうことになってしまった。知らなかったこととは言え、申し訳ないことをしました」と頭を下げた。

紗季の婚約者のこの男はいい人で「分かりました」と一言だった 。一緒についてきていた彼の父親は、すごい剣幕で、「そんなことで済まされるか! 訴えてやる!」とか言っていたが、彼が「いや、悪いのは彼女でしょう。 彼女に責任を取らせればいい!」と、公平にはその後も、何も言ってこなかった、

もちろん、その後婚約破棄になり、破談になった。公平は『まあ、そうなるだろうな』と予想はしていたが......。

ある日、公平が職場につくと、すぐに上司が公平を見るなり、「おい公平!お前何やったんだよ?さっき警察が来たぞ。逃げなくて大丈夫なのか?」と言う。

「えっ?別に何にもやっていませんけれど」 と、公平が不思議がって答えると、

「すごい形相で『山神はいるか?』と刑事が怒鳴り込んできたんだけど、本当に、お前何もやっていないのか?」かなり、心配そうだ。

「本当に何もやっていませんから。逃げる必要なんてないでしょう。ちなみに、何ていう方だったんですが、その刑事は?」

「これを置いていったぞ」名刺を手渡された。

公平がその番号に電話連絡をしてみると、 その刑事は紗季の父親の友人だった。話を聞くと、紗季が行方不明になったと言う。

それで、「公平のところに来てないか?」と尋ねてきたと言う。

職場に突然、刑事が訪ねてきたら誰でもびっくりするだろう。と思い、苦笑しながら仕事を終え、公平が家の玄関に鍵を差し込んだ、その時、

暗がりから人が出てきた。紗季だった。

「おいおい、何やってるんだよ!こんなところで」と公平があきれ顔で怒鳴ると、紗季は、

「もう、家にもどこにも居場所がないの。あんなことしちゃったもんだから、肩身が狭くって。私の地元って田舎でしょう。相手の人も同じ所の出身だから、もう居づらくって......」

「それで、ここに住みたいっていうことか?」

「できれば......」紗季は泣き崩れそうな、消え入る様な声でそう言った。

そういう経緯を経て、公平と紗季は同棲する事になった。同棲していた2年の間に、彼女の両親が二度ほど公平を訪ねてきた。

「迷惑ばかりかけて申し訳ない」と彼女の父親は公平に頭を下げてくれたが、「娘と結婚してくれ!」などということは一度も口には出さなかった。ただ、「面倒を見てほしい!」ということだけ、公平にお願いしていた。

公平は紗季との将来を考えてはいたのだが、 やはり 、最初のマリッジブルーで婚約破棄になった、あの一件が心のどこかで引っかかっていたんだろう。 結局、結婚までには至らなかった。

それで、また、今回の一件だ。

紗季から電話があって、公平のところへ来たいと言う。「いやいや、もう勘弁してくれ!」と言うと、「どうしても、どうしても!」と紗季は受話器の向こうで号泣している。

「いや、今度ばかりはもうだめだぞ。俺もいい加減、お人好しはここまでだ!」と公平は突き放すように電話を切った。

公平が、「このままではまたダメだな......」と考え、勤めていた職場も辞め、家も引っ越したのは、それから一週間後のことだった。

その後、公平は紗季と連絡を取っていない。知り合いの所に何度か来たらしいが、公平が出くわすことはなかった。

『紗季が、素敵な人と結婚して、子宝に恵まれて、幸せに暮らしていますように!』と、公平は今でも心の底からそう願っている。

一人の女に翻弄され続けたあの二年間も、今となっては、公平にとっても懐かしい青春時代の1ページである。

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