理知を継ぐ者(51) 被害者というもの④
こんばんは、カズノです。
【被害者の歴史】
ここで少し、日本人と被害者の歴史を振り返ってみます。つい最近まで日本人は、自分を被害者とするのを嫌ってきたという歴史です。
つい最近まで、日本人にとって「自分を被害者と表明する」のは恥ずかしいことでした。これは日本語の構造の影響が強いんですが(後述)、ともあれそもそも、自分を被害者と表明するとは日本人にとって、
「私は可哀相な人です! だから同情してください!」
と訴えるようなものだったからです。周囲の同情をあてにした、卑屈な振る舞いが「私は被害者です」で、それがイヤだったということです。
例えば、山田洋次に『武士の一分』という映画があります。木村拓哉が主演して話題になりましたが、彼の役柄は江戸期の武士です。ドラマの発端、職務上のある事故からこの主人公は失明します。
周囲から同情され、なにくれとなく世話を焼かれるようになった彼は、「おれはひとから情けや施しを受ける身の上になったのか。…いまいましいの」とひとりごちます。
正直、ほんとの江戸期から日本人が「ひとから情けや施しを受ける身の上」を「いまいましい」と嫌っていたかはおれには分かりませんが、だいたいこれがかつての日本人の人生観だったのは事実です。
他人様の情けや施しをあてにするなど、よほど切羽つまった人間のすることで、あえていえば、乞食のすることだった。乞食、ものごい、おもらいさん。彼らのように本当に切羽つまっているならともかく、ひとをあてにするめめしさ、卑しさを日本人は嫌ってきました。
そういう意味では日本人は、民主や人権や市民意識などとは無縁に、案外以前から自立的だったんですね。(民主や人権や市民意識が日本人に定着し始めたのはごく最近のことですが、むしろ──あるいはだからこそ、そのようになってから「自分は被害者だと表明する」人が増えたということです)。
ついでにこういう話もしておきましょう。
【日本語の科学性】
そもそも、ある紛争的な関係において、一方が100パーセント悪で、一方が100パーセント善だということはまずないものです。もちろん無差別殺人や通り魔のような事件なら別ですが、100対ゼロでこちらの勝ち、あちらの負け、そんなに単純には世の中は出来ていません。
例えば国会議員の失言にしても、あるピンポイントに焦点を当てれば問題発言かも知れないけれど、全体の文脈を受けとめれば、いうほど問題とはいえない場合はあります。本人なりの政治信条を慮れば、100パーセント悪いとはいえない場合もあります。
あるいはこういう例も挙げましょうか。
そもそもその失言議員を選んでいるのは国民です。ならばその国民には、「国益を損なうような暴言を吐く人間を、自分たちの政治の代表に選んでしまった責任」はあるでしょう。同じことはテレビタレントにもネットの人気者にもいえます。彼らに一定の支持を与え、祭り上げているのはこちらです。
もちろん、そんなにいちいち気に障るのがテレビやネットなのだったら、チャンネルやサイトの取捨選択をもっときちんと本人が行えばいいのに、じゃあその本人の責任はどうなるのだ、という話もあります。
そう考えていくと、何らかの紛争的な優劣とはいつも、あれこれ問題が複雑に絡み合った末の、グレーの濃淡で出来ているものだと分かります。白黒がはっきり付くものではない。
むろん、刑事でも民事でも、裁判もこのグレーの濃淡で最終的な勝ち負けを決めています。検察側の主張がまるまる通ることも、弁護側の主張がまるまる通ることもほぼありません。
100対ゼロで白黒がはっきり付いているわけではなく、グレーの濃淡で勝ち負けをつけている。70対30でやっぱり被告が悪いとか、40対60で実際は原告が悪かったとか、51.5対48.5で向こうが悪いことになったけど、けどこれほとんど変わらないね、とか。現実の紛争とはいつもそういうものです。
今風にいえば、本人に100の責任を求める自己責任論も極端だけど、他人や社会構造が100悪いとするスタンスも極端だということです。
ところで、そう考えると、謙譲の美とされた日本的な言葉遣いにも、一定の合理性があることが分かります。つまり連載31回で話した、「自分にも落ち度があったのかも知れません」という言い回しですね。このひと言を付け足したがる心性/習慣。そのせいで自分の落ち度を考えたり、調査したりすることになるかも知れないという、あれです。
90対10の圧勝でこちらが勝ったとしても、でも10パーセントはこちらにも「落ち度」があったわけです。70対30でも言わずもがな、60対40なら本気で「落ち度」を考えないとやばいレベルでしょう。
でもこういうものを、100対ゼロの考え方は無視してしまいます。
その31回での大学のように、「自分は被害者だ」という文脈で話して、相手との関係を100対ゼロにする。そういう文脈を流行らせている現代人とは、殊更にコンプライアンス的な正しさを「科学的に」「合理的に」差し出すのが好きなようですが、そこに科学や合理はあるでしょうか。
むしろ科学的な合理性を持っているのは、かつての「形式的で曖昧な日本語」のほうです。ある紛争的な関係で白黒はっきり付くものはまずない、曖昧なグレーゾーンの中で双方の是非優劣が決まっている。
だから、勝ったとしても「自分にも落ち度があったのかも知れません」を付け足しておく必要があると。
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