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禅語の前後:力㘞希咄(りきいきとつ)

「えいっ!やぁ!とぉ!」くらいに訳される。
かつ」と同じように、これ自体は意味のない言葉。

 もともと「りきいきとつ」の三字(三字とも掛け声)だったものが「力」「口」「希」に分けて「力口希咄りきいきとつ」と四字で書かれるようになり、さらに一部が先祖返りして「力㘞希咄りきいきとつ」になったものが、せんの利休りきゅうの最期の言葉で使われた。
 利休さんの最期の言葉は、かなりパッションにあふれているパワフルなもので、死の四日前に書いたと伝わっている。

 人生七十 じんせいななじゅう
 力㘞希咄 りきいきとつ
 吾這宝剣 わがこのほうけん
 祖仏共殺 そふつともにころす
(千利休 遺偈ゆいげ

提ル我得具足の一ッ太刀
 ひっさぐるわがえぐそくのひとつたち
今此時ぞ天に抛
 いまこのときぞてんになげうつ
(千利休 辞世の句)

 え、お武家さんでしたっけ、あなた? と思うような強い言葉でもあり、かんたんには意味が分からない、解釈を拒絶するような言葉でもある。

 千利休。大阪堺のビジネスマンであり、「利休ごのみ」と称される無印良品的なプロダクトの数々を生み出したデザイナーでもあり、政治家として政権の中枢でも活躍した記録が残されているが、何よりも彼は、禅と喫茶を中心とする「茶の湯」という芸術を完成させたアーティストだった。
 織田信長に仕え、豊臣秀吉にも仕えた。秀吉との関係は、いささか複雑だったようだ。信長時代には、利休が秀吉を呼び捨てにしている手紙が残っている(利休は秀吉より一回り以上も年上)。あるいは、秀吉が利休を切腹させたその翌年、秀吉が新しい城の内装を「りきうにこのませ候えて利休が好むもののように」作れ、と命じた手紙が残っていたりもする。
 そう、彼の最期は、豊臣秀吉の命令をうけた切腹だった。これで彼は伝説の茶の湯スターとして、堂々の殿堂入りを果たすことになる。最後の言葉にある「宝剣」や「一ッ太刀」は、茶の湯のメタファーだとする解釈がある。

 すでに齢古稀に達していた彼は、今更生きながらえて自己の生涯をかけた茶道を政治に屈服させるよりは、芸術の独立をまもって従容として自刃する道をえらんだのではなかろうか。彼は最後まで昂然として秀吉の意思に屈せず、ここでも秀吉に肩すかしをくわせて、ついに秀吉の征服の及びえない悠久の世界に超入したのであった。彼の辞世の偈にみる鋭い気魄に、秀吉の暴力的征服に対する最後の翻身の気合ともいうべきものを感ずるのは、私の主観的妄想にすぎないのであろうか。
(芳賀幸四郎「利休の切腹とその時代」、引用に際し現代仮名遣いに改編)

 僕にとっても利休さんは最高のスターなので、さらにふっとんだ妄想をしてしまう。遺偈を書いたその時にはもう、確執を重ねた秀吉のことなんて、眼中になくなってたんじゃなかろうか。

 「祖仏共殺そふつともにころす」、だしぬけに出されると怖い言葉だけれど、ご先祖様も仏様も殺してしまうというのはすなわち、先祖から続く過去も、極楽を約束する未来も、どちらをも拒絶して、現在ただ今このときに生きるのだ、という宣言とも取れる。それを果たす「吾這宝剣わがこのほうけん」とは、単に芸術としての茶の湯などではなく、茶の湯も政治も商売もぜんぶひっくるめた彼の生き様そのもの、であり、その「我得具足の一ッ太刀」を「天になげうつ」と、死を前にして高らかに歌うのだ。

 過去はいらない、未来もいらない、俺はただ今を生きる、俺が得たこの名剣が、俺がこれまで得てきた全てのものが、俺にそう告げるのだ。そして俺はこの剣も、もう天に投げうってお返しすることにしたぜ。えい、とぉっ!
 これを七十のじいさんが言い遺したのだ。王様に殺されるその四日前に。
 もう、かっこよすぎる。

参考資料:
・芳賀幸四郎「禅語の茶掛 又々 一行物」
・唐木順三「千利休」
利休忌:
 千利休の自刃は天正十九年二月二十八日。新暦で言うと三月末頃、千家では今も毎年、利休忌として彼をしのぶ茶会を開く。利休忌では茶華として菜の花が選ばれる。菜の花は、彼が愛した花とも伝えられる。