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禅語の前後:忘却百年愁(ひゃくねんの うれいを ぼうきゃく す)

 寒山かんざんという、中国・唐代初期の伝説的な人物が、書き残したと言われる詩の一節。
 この寒山さん、実在したとしたら相当ぶっ飛んだ人物だったようだ。頭には樺皮を被り、ボロを着て木靴を履き、夏にも雪が残るような寒い山に住み、挨拶されると大笑いして山へ逃げ去る。…人物というより、むしろ妖怪じみている。
 この詩は、彼が山中のあちこちに書き残したものを集めたなかのひとつ、と言われている。題名も無く、通称として初句から「有一餐霞子ひとりのさんかしあり」と呼ばれている。餐霞子…仙人がかすみって生きるというのは、元はこの歌から来ているのかもしれない。

有一餐霞子、其居諱俗遊。
 (ひとりの餐霞子さんかしあり、その居には俗遊をむ。)
論時実蕭爽、在夏亦如秋。
 (論時は実に蕭爽しょうそうにして、夏に在りてもまた秋の如し。)
幽澗常瀝瀝、高松風颼颼。
 (幽澗ゆうかんは常に瀝瀝れきれき高松こうしょうは風に颼颼しゅうしゅう。)
其中半日坐、忘却百年愁。
 (其の中に半日坐すれば、百年の愁いを忘却す。)

寒山詩

俗世の人との交わりを避け、かすみを食べて生きる者が、一人。
話しぶりは粋で爽やか、暑い夏でも秋のよう。
ひそやかな谷川に流れる水、松の巨木を鳴らす風、
その中で半日も座っていれば、百年つづく憂鬱さえも忘れてしまえる。

俗世の僕らが憧れる仙人の暮らし、あるいは、トールキンの描くエルフの暮らしのようだ。
正直、すこし整いすぎているような気さえ、する。

時代は下って昭和ひとケタの日本。ここにも、似たような成り立ちの歌がある。
山野に遊び、詩や童話を著した作家が、手帳の片隅に書いていた文章。本人の病没後にトランクの奥から発見され、一般的には詩として受け止められてはいるが、本人に発表する気があったのかどうかは定かではない。
「谷川徹三による最高の讃辞から中村稔の”ふと書き落した過失”説までさまざまだが、一見酷評と見える中村説の方が、この詩というよりひそやかな祈りに似た作品にこめられた深い断念に、より迫るもののように思われる」(天沢退二郎)。

これにも題名は無い。題名に代わる通称として、初句が使われている。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノアツサニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ嗔ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ

…(中略)…

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ

手帳 1931年11月3日 [雨ニモマケズ] (宮澤賢治)

仙人のように霞を喰って生きるわけにはいかない。一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べる。
からからと大笑いして逃げ去ったりもしない。いつも静かに笑っている。
俗世の人とも関わり続ける。あちこちに顔を出すが、求められもせず、拒まれもしない。居るだけの役立たずだと、人からは思われている。

あまり格好の良い姿ではない。
が、「そういうものに私はなりたい」と、誰も読まない(はずだった)手帳の片隅に、彼は書き残していた。

もう十年ほど経てば、宮澤賢治が手帳に書いた日付から百年になる。
俗世に関わらず、かすみを喰って生きていれば、彼の愁いは忘れ去られたのだろうか。

禅語を読みながら、まったく禅がなってないのは非常に間抜けなのだけれど、今の僕には、「忘却百年愁」の描く美しいユートピアよりも、俗世の泥にまみれた木偶の坊の立ち姿のほうに、むしろ惹かれてしまう。

※参考文献:
 芳賀幸四郎「茶席の禅語 又続 一行物」淡交社
 天沢退二郎編「新編 宮澤賢治詩集」新潮社