火山と日本人の精神世界(1)
日本が世界有数の火山国であることは日本人なら誰でも知っている。実際に世界の活火山の7%が日本にあると言われるが、そのことが日本人の精神に与えてきた影響を、東京など平野部に住んでいる現代人は、あまり深く考えることがない。
火山と古代日本人の関わりについては、今から7300年前の縄文時代、鹿児島県の南端の沖合いで「鬼界カルデラ大噴火」があり、その時の記憶が「古事記」などに反映されていると説く学者もおられるようだが、私たち人間は、今から2000年前の記憶すら定かでないので、古事記と、10,000年近く前の時代との関連を考えることは、私にはできない。
そこまで時代を遡らなくても、古事記が書かれた時代の直前、7世紀後半の白鳳時代に、有史において最大の浅間山の噴火があったようで、当時の記録にも、火山の後の影響などが具体的に記されている。
今現在であったも、貞観の大噴火(864-866)のような富士山の大爆発が起きたら日本社会は根本的に変わる可能性があるはずで、律令制のビジョンと、白鳳時代の大噴火が何かしらの関わりをもっていたとしても不思議ではない。
さらに日本の火山は、地下深くのプレートと関係しているから、大地震との連動があるし、遠く離れた場所での同時的な爆発もある。
7世紀後半の浅間山の大噴火の時には南海トラフ大地震があり、9世紀後半の富士山の大噴火の時には、2011年3月11日の巨大津波を超える大津波が東北に起きた。
つまり火山の大噴火は、噴火による直接的な災害だけでなく、地震などと連動し、恐ろしい天変地異を鮮明なイメージで象徴するものであり、古代人には、神の怒りに見えたに違いない。
地下深くのプレートと関係があるからだろうが、日本の火山は、一定の地理的法則に基づいて配置している。
東日本火山帯は、千島列島から西に向かって北海道を横切るように伸びるが、小樽のところからは真南に方向を変え、東北の奥羽山脈を貫き、群馬から長野の八ヶ岳、富士山、伊豆へと抜ける。
不思議なことに、縄文時代の環状列石や主要な遺跡は、この火山帯にそっている。
そして西日本火山帯は、南西諸島から九州の桜島、阿蘇山、そして中国山地に入り、島根と鳥取の県境の大山あたりまでとなる。
この東西の火山帯から最も離れている場所が近畿地方で、近畿には火山が一つもない。
そして近畿の真ん中が奈良盆地で、この場所に、まつりごとの中心が置かれた。
奈良県がまつりごとの中心になっていたのは、「ヤマト王権」といわれる強力な力を持った豪族勢力が、この場所から出て日本を統一したというよりは、火山列島の安寧のためのまつりごとを行う場所として、奈良盆地が適していたからと考えた方がいいかもしれない。
というのは、弥生時代の祭祀道具である銅鐸の製造拠点だった唐古遺跡(奈良県田原本町)は、奈良盆地のど真ん中にあり、この遺跡がある東経135.80上に、藤原京や平城京、さらに天武天皇や天智天皇の八角墳までが位置しているからだ。
銅鐸が何を目的に作られたのかは様々な議論があるが、はっきりしているのは、西暦0年頃を境にして前期と後期に分かれ、前期は小型で装飾がなく、舌という鐘を鳴らす道具が備わっていたのに対して、後期の銅鐸は巨大化して装飾絵が施され、舌がなくなっているので鳴らすためではなく観るための道具だと説明される。
この後期銅鐸の最大の製造基地が奈良県の唐古遺跡だが、銅鐸の分布も、前期と後期では違っている。
前期のものは朝鮮半島から伝わったと考えられ、九州でも多く発見されているが、後期のものは、近畿を中心にして、、西端は広島県世羅市の黒川遺跡と出雲の加茂岩倉遺跡であり、なぜかこの二箇所は、東経132.88の同経度だ。
そして、東端は、後期型の銅鐸では静岡の掛川(長谷)だが、2007年に、千曲川沿いの長野県中野市の柳沢遺跡から、九州や近畿で発見されている型の銅戈8本と、前期の銅鐸5口が、まとめて埋められているのが発見された。この場所は長野盆地の最北端で、「境界」の地であった。
出雲の加茂岩倉遺跡からも39口の銅鐸が発見されたが、柳沢遺跡とともに銅鐸が寄せ集められて埋められているところが、果たして、銅鐸が作られた時代にその場に埋められたのか、もしくは、後世に何かしらの理由で、まとめて埋められたのかはわからない。
しかしそれでも不思議なのは、後期型銅鐸埋納地の西端にあたる出雲の加茂岩倉遺跡と広島の黒川遺跡を結ぶラインのすぐ西に、西日本火山帯の活火山としては東端に位置する三瓶山(島根県大田市)が存在し、後期型銅鐸埋納地の東端である静岡の長谷と、長野の柳沢遺跡を結ぶラインのすぐ東に、東日本火山帯の西端にあたる八ヶ岳、富士山、伊豆諸島が存在していることだ。
地図上でこのことを確認すると、火山帯との境界に銅鐸を埋納することで災いを封じるという願いがこめられているようにも見える。
そして、この東西の火山帯から最も離れた場所の奈良盆地に、銅鐸の製造場所としては最大の唐古遺跡があるということは、魏志倭人伝に「倭国大乱」と記録されているように日本国内で各地の勢力が争っている時代から、近畿の真ん中で、境界を護るための祭祀道具である銅鐸を製造するという意識があったということだ。
そして、後に律令制の時代となり、藤原京や平城京の都も、この近畿の真ん中に築かれた。さらには、律令制が始まる時代の重要人物である天智天皇と天武天皇の八角墳もまた、同じ南北ライン上に築かれたということは、この八角墳にも、国の安寧のためのビジョンが重ねられているということだろう。(続く)
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