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(120) 「優越」を感じる

それは産まれ落ちた時に遡る。
人間の子は無力なまま産まれ落ちる。

その始まりは、他の動物たちと大いに違うことに起因している。「無力な存在」としてこの世に生を享けたから、人間は何とかしてその状態から抜け出したいと願ったはずだ。アドラー博士は、それを「優越性の追求」と呼び、人間の普遍的な”欲求”だと考えた。その「優越性の追求」と対を成す「劣等感」のどちらもが、努力と成長への大きな刺激となるものである。その「劣等感」であるが、”他者との比較”から生じるものと、”理想と描く自分と現実の自分”から生じるものがある。この成長への大きな刺激となる「劣等感」というのは、後者である。それらは、人類のあらゆる進歩の”原動力”となってきた。

日頃私たちはその”劣等コンプレックス”の理屈によくお世話になる。「~であるから、こうすることが出来ない」という論理である。これは、「こうすること」をしたくないから、「~である」ことを”口実”として持ち出し、理由としているだけであり、実際には因果関係などはないのである。

アドラー博士は、「見かけの因果律」と呼んでいる。仕事・学校を休もうと自分が決めたのに、「お腹が痛い」「頭痛がする」と自分を欺いて理由とする。このように、口実を持ち出し、目の前の課題に直面しないことを「人生の嘘」と呼び、”劣等コンプレックス”とは「見せかけの因果律」を立て、”人生の課題”から逃げようとすることだと言い切っている。なるほど、自覚している訳ではないが、その通りであると思う。

私はカウンセリングの中で、これに直面することが何より”辛い”ことだと思っている。クライアントにしたら、わかっていながらつかねばならない嘘であり、そうもしなかったら自分が潰れてしまうかも知れないからなのだと思うと、私はどうしていいのか立ち止まってしまうしかなくなる。気持ちがわかるだけに、こちらも大いに辛いのだ。

しかし、私がそれを見過ごしてしまうとしたら、クライアントに誰がどのように知らせるのか?あてはなくなり、その”気づき”を有効に活かすことが出来なくなってしまうやるせなさが残る。毎回それで困り果てている訳にもいかないから、私は苦し紛れで以前扱った事例から、その時のクライアントに了解を取り、たとえ話として他のクライアントに話す事に決めている。”気づき”を促したい一心なのだ。

「急に”赤面症”になってしまった男性がいて、どうしても治さないと仕事でもプライベートでも困るんです、と訴えられました」
「はい」

「彼の中にはひとつの”トリック”があると思うんです。”赤面”するのは決まって人と対面した時なんですね。まぁ、ひとりの時には決して”赤面”などしなくて済みますから・・・。彼は、人間関係が苦手だから”回避”していたいんですよ。しかし、それを”回避”する為には理由がいると無意識が考えたわけです。そして”赤面”を創り出しているんです。これが”トリック”です」
「・・・その男性の気持ち、よくわかります。そう考えたら、私の中にいくつかそれに近いものがありますから・・・」

「そうですか、あなたにもありますか。まぁ、誰でもひとつやふたつありますからね」
と、フォローしながら、「自分の中にもあります」と、そのクライアントが認められたことに安堵する。

「そこで、今回は人間関係を回避する為でしたが、その他の何かを回避する為の理由として”何か”を創り出してしまうのは、決して正しく式が解けているとは思えませんね。いかがですか?」
「はい・・・確かにより複雑になるし、逆に良かれと思っていても、”病”になったり問題を抱えたりもします。そんなの怖いです・・・」
「そうですね。自分を騙す”トリック”なんか使わないで、勇気がいりますけど劣等感はきちんと認めて建設的に補償することの方が現実的ではないですか?」
「勇気がいるんですね。何事も地道な努力が必要ということですね。私、やっぱり逃げてるんですね」

「その建設的な補償ですが、次のことが”器用”にならないと、なかなか難しいことになります。それは、自分が理想とする状態に達していないと思ったら、それなりに努力して言い訳を探さない、ということです。それと、いきなり高い目標を掲げないことです。手がつけられることを前提に、目標を割っていくつかの山に分けられるか?という”器用”さですよ」
「先生がおっしゃる”器用”という言葉が何とも私には有り難いです。そんな”能力”なんて言葉を使われたら、私とても出来ません。劣等感が強いんでしょうね・・・」

出来ることなら、前者として説明した”他者との比較”で生じる劣等感は決して持たない。自分を人となんか決して比較したりしないことだ。「優越性の追求」に有効に働くことはあり得ないし、むしろ足を引っ張るぐらいが関の山という訳だからである。

「劣等意識」を認めて、建設的な補償に自らを向けていく努力、そんな”器用”さを持ちたいものである。産まれて初めて願った、人生最初の”欲求”なのだから、大切にしていきたいものだ。それは様々な”欲求””原始”である。人生における、初めてであり一番重い”欲求”なのだ。



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