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【かぜたみ日記】しまい支度、もしくは終わりの始まりについて思いをはせること

こんにちは、かぜのたみです。

世間は連休のようですが、人混みを10000%避けて生きてるため、家で文章を書いて過ごすことにしました。

今日はこれまで公開noteで何回か続けた「わかりやすく有益そうな香りのする情報」ではなくて、「100000%自分が思っただけのことを書きたいわぁ」で、進めたいと思います。

なので、わかりやすく有益そうな香りのする情報をお求めの方はまた別の機会にお会いしましょう。いつも別に有益じゃない、というお声は受け付けません!

先輩たちがそれとなく「しまい」始めてる

何も意味深な発言ではないのですが、最近「しまい支度」について考えるようになりました。

というのも、私が10代の頃、刺激を受けた先輩方たちが、揃いも揃って「しまい」始めているように感じることが少しずつ増えてきたからです。もちろん実際はどうかわからないですが、私としての印象です。

私たちは、今がずっと続くものだと無意識に感じながら、日々を過ごしていると思うのですが、やっぱり終わりは来るようで、それは著名な人であっても、一般の民であっても変わらないという事実にも割と衝撃を受けます。

有名な人でも、普通の人でも、いつか死ぬことは同じ。

終わりの準備をするというのは、つい”終活”のようなスタイルを思い浮かべて「完全に終わるための儀式」に思ってしまいがちな気がしますが、むしろそれは「終わりの始まり」なんだということを、ある美術作家のドキュメンタリーを見て感じたことがあったので、今日は書いてみたいと思います。

年を重ねる過程で変化していくもの

作家の人生は本当にすごいなと思います。自身の変化とともに、作品も変化してゆき、いずれも昇華されていく様子などは、美術にせよ、文芸にせよ、本当にすごいことです。観客として、そこに触れさせてもらえることもすごいことです。

で、私が最近見たのはこちらで、ダミアン・ハーストという現代美術家の展覧会のためのドキュメンタリーでした。

とはいえ、現代美術や作品について論じるわけではないので、どうぞご安心を!

👇動画はこのページから見れます。25分くらい。カルティエ現代美術財団によるドキュメンタリー・フィルムです。美術に関しての知識がなくても、本質的なところは理解できるのでダイジョブ。

ダミアン・ハーストという作家については、私がまだ高校生のティーンズだった頃に知り、尖った作風の作家だという印象がありました。尖った、、、というか、率直に言えば「牛のホルマリン漬けの人やろ?」です。

ダミアン・ハースト氏の代表作は、動物やサメの死体をホルマリン漬けにしたシリーズが確か有名で、特に死んだ親子の牛を縦に真っ二つに切り(!)、ホルマリン漬けにして展示したものが私はすぐに思い浮かびます。血みどろではなく、形としては美しくあるのですが、それがアートなのか、いや本当にどうなん?というもので、アートってなんなん、、、と私が考えたきっかけの作家だったかもしれません。(ご興味のある方はググってみてください。普通に綺麗です)

そんな(とまとめていいのかどうか)強烈な作風とメッセージ性を放っていた作家がダミアン・ハースト氏だったのですが、つい最近私が「東京でやってる展覧会は何かいの」と調べてたまたま見つけたのが、そんな”尖った”ハースト氏の最新作でした。

桜をモチーフにした、デカいキャンバスのシリーズです。

展覧会のページにも紹介があるのですが、『母の桜』というタイトル通り、ハースト氏のお母さんが桜をよく描いていたから、、、というのが今回のシリーズの構想のもとだとドキュメンタリー中でも語られています。

ホルマリン漬けからは、ずいぶん月日は流れているものの、今回の桜を描くまでの作風の変化や、ハースト氏自身の製作に対する姿勢や変化などが、インタビュアーとの会話そのままドキュメンタリーには収録されており、それがものすごく感動的なのです。しかも、人生を生きるための名言の数々が凝縮されており、作家の感性とはこういうものか、というのも肌身で感じられました。

で、思ったのです。

しまい支度というと、もう”おしまい”という感じの印象かもですが、「しまう」を内包しながら進むことで、始まることもあるんだというのが、私はよくわかったのです。

自意識から自分を解放するとき

「前なら恥ずかしくて描けなかった」と桜の絵についてハースト氏は話しているのですが、そういうのってあるよね、と絵を描かない一般の民ながら感じたというのもあります。

前の自分なら、こんな率直に美しいものや、ナイーブな思い出をそのまま表現するなんて恥ずかしくてできなかったけど、今ならできる。というか、今、表現したい。

こんな感情やタイミングが、私にもごくたまに訪れる時があります。皆様にも、きっとおありかも知れません。ふつふつと湧く、情感のようなものが。

若い時や、まだエネルギーが有り余ってる頃は、自意識がビンビンで今ではなんとも思わないことが「なんか無理」と拒否していたこと。そしてその逆もあり、今思い出すと「あんなこと、よくできたな」ということもあったりします。

ハースト氏はじめ、先輩方の背中を見ていると、どうやら年を重ねると、この「自意識が邪魔してきて、見えなかったことや表現できなかったこと」が解放されていき、新しい境地に達せるよう。これまでは「自意識が過剰だから出来ること」をやり終えてきたとしたら、人生の後半の後半には「解放」が待ってるんだなと。

人生にも作風にもそれぞれフェーズがある

ドキュメンタリーには、前半にこんなエピソードも出てきます。

「無駄なものを削いだドットを描いた」「ミニマリズムに徹した」「そこに感情を隠したんだ」「それを25年も続けた」みたいな、以前の作風と作品について心境を吐露する流れのところがあるのですが、そんな話を踏まえると、より桜のペインティングの迫力も増す気がします。

一度ミニマリズムに徹すると、それでもなお抑えられないエネルギーというのが出てきて、次へと進ませるものになるんだなぁ、とも思いました。

私たちはつい、その人の人生の一欠片を切り取って、「その人」として安直に理解しようとしてしまいますが(もしくは自分自身に対しても)、個人の性格というよりも、状態や、その時にどんな時間を過ごしてるかによって、いかようにも「あり方」は変わってくることを、ハースト氏の作風の変化をドキュメンタリーで追っているとものすごく感じました。

ドキュメンタリー中では、はっきりと「しまい」とは話していないものの、後半はインタビュアーからの「これ(桜のシリーズ)は、次の段階の始まりでは?次の作品はどこへ向かう?」との問いかけに、ハースト氏はこう答えます。

「確かに これは始まりと終わりと言える」

ダミアン・ハースト 桜 https://www.nact.jp/exhibition_special/2022/damienhirst/

アート界に問題を投げかけた代表作や、ミニマリズムに徹した時代など、さまざまな変遷を経て、年を重ねていくように、手書きのドットを重ね、画面に奥行きを出していくハースト氏の姿は、私には作家の生き方そのもののように思えました。

自分の何を解放し、出していくか

自然を自然に描くこと、生まれて死んでいくこと。自然を自然のまま捉えて表現することを、ハースト氏はこだわります。

あらゆる思考と経験を積み重ねてからみる自然は、またものすごい奥行きがあるのでしょう。平凡を極める私には、理解不能の境地です。

ダミアン・ハースト 桜 https://www.nact.jp/exhibition_special/2022/damienhirst/

あることを極めた人が、大切なことは何かといえば「素直」や「自然」と答えている場面に遭遇すると、それは興味深いなと思ってじっと見てしまいます。自然のありのままを見るということが、あるところまで到達した人たちには感じられます。

しかし、それがいかに難しいことか、です。

ダミアン・ハースト 桜 https://www.nact.jp/exhibition_special/2022/damienhirst/

経験を積み重ねるほど、重くなっていくのは、何も暮らし周りだけじゃないみたいです(そして今よく見てみれば、「重ねる」と「重くなる」は同じなんですね。ひょー)。色々わかってくるから、決めつけてしまうこと、諦めてしまうこと。私たちにもたくさんありますね、、、。

ハースト氏はこうも話しています。

ダミアン・ハースト 桜 https://www.nact.jp/exhibition_special/2022/damienhirst/

「それがリスクという幻想だし、人生そのものだ」。そして「バランスが取れてるようで、崩れそうにも見える」とも。完成もしていないし、終わるわけでもない。どうだったのかは、全て終わってからしかわからない。そういう境地というものが存在することを知るだけでも、なんだか生きる勇気がわいてくる気がしました。

「しまい」や「おわり」に関して、不安がったり、ビビってるようなのは、まだまだ自意識や幻想が邪魔をしておる証拠なのかもしれません。何を捨てて、何を取り入れるかではなくて、「自分の何を解放し、出していくか」が、”しまい”のメインなのかもですね、と私はハースト氏のドキュメンタリーから学んだ気がします。

ダミアン・ハーストの桜は、国立新美術館で5月23日まで展示。私の東京入りは29日なので、微妙に見れずです。惜しい!

どんなしまい方にされますか?
ミニマリズムに徹して、全て隠してしまいますか?それとも。

ほな、本日もあんじょう!

【あとね】

少し前に、京都の大山崎山荘美術館で開催していたこちらの展覧会は、本格的な「しまい」で衝撃でした。うっかりスルーしてしまったので、見にいけばよかったです。

長年にわたり収集・制作した数々を、自ら「マイ遺品」と名づけ展示されたそう。民藝の域だとか。


そしてVoicyもよろしうに。