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『想い出 』 #シロクマ文芸部 

*仕事場にて


書く時間・・・正確には描く時間の開始だ。

仕事場には先生と自分とのふたり。やや離れて並んだ座卓。
当然、座椅子に座って向かうのだが、座卓の下にはまるで座布団の
延長のように布団が敷かれている。そして、たった今その布団での
2時間の仮眠を経て起きてトイレを済ませ顔を洗い・・・
職場である座卓の上の原稿に向かい愛刀のペンを持ったところだ。

☆☆☆

今はもう大昔。
私が20歳だった頃の昭和の職場の風景である。
先生は有名漫画家として分野の重鎮であり自分はその助手。
だが、ただの助手ではない。凄腕の先生が「負けるものか!」と、
時にはライバル心むき出しで原稿に向かわせるほどの凄腕の助手なのだ。
そこにはいつも、表面には出ることもない熾烈な空間が生まれていた。


職場は池袋のマンションの四階。
先生の自宅でもあり、奥様との二人暮らしである。
仕事の折には奥さんと奥さんの妹さんが《仕上げ》の作業に加わる。

依頼された仕事には締め切りがあり、幾つかの仕事が重なった時など
当然ながら助手の私に自分のアパートの三畳の部屋に帰る余裕などはなく
職場に泊まり込むこととなるのだが、もとより雇用契約などあるはずもなく
理不尽などという言葉さえ死滅するその職場は戦場であった。


私は(次の原稿が来るまでにペン入れを終えるのだ!!)と、
横目で先生の進行具合を伺いながらペンを走らす・・・!!
先生はたぶん(私君より先に下描きを終えるのだ!!)と必死!
 
だが、先生は依頼の仕事を容量以上に引き受ける事もあって、
緊張感に満ちた職場は時に戦場と化す。
普通なら間に合わない締め切りの時もあり、アドレナリンが沸騰した
我々はアスリートとなり、普段ではありえないスピードで作業をこなす
超人に変身して奇跡の完成を見る・・・!! そんな日々の連続だった。

そんな日常での、もっとも過酷だった
一カ月半の作業体験を記したいと思う。
当時の私は、「決して弱音を吐かない」若者だった。
そのことを前提の上で。


現場は、締め切りの乱打に立ち向かう
戦士二人の図・である。


二時間の睡眠・起きて即・作業で約30時間。
2時間の睡眠・即・起きて30時間・・・2時間の睡眠で30時間・・・の
繰り返しのまま、締め切ったカーテンの部屋で陽の光も見ずに、
立ち上がるのは食事と風呂とトイレの一瞬のみ。

その状態のまま約一ヶ月半・・・


令和にも
そんな過酷でブラックな現場があるのだろうか?


さて今回、本当に書きたかったのは・・・
懐かしい想い出に昇華したそんな大昔の話ではなく
その時に体験した不思議な感覚のことである。

アスリートからスーパーマンににまで変身した体験談である。(笑)


変身状態で時間に追われた作業に埋没している時
タバコの煙が充満した部屋においても不思議と空気は清んでいる。

時々時間を確認するのだが、時計の針が止まったままで

時間が進んでいない?


・・・そんなことがあった。

たぶん、ある種の【 ゾーン 】に入っていたのだと思う。


不思議な感覚である。時間が止まったままなのだから、その間、
普段の能力ではありえない仕事量も可能となる理屈である。

印刷所への残り時間が30分になった時、白紙の原稿が4枚残っていた。
先生が2枚。助手の私が2枚。15分で1枚のペースで描き上げた!!
普通では不可能なことが可能になった・・・
ふたりとも【 ゾーン 】に入っていたのかもしれない。


年月を重ねて平成から令和へと時代も変わったが、その当時の
いわゆる【不思議体験】とは、ご無沙汰したままである。

先生も数年前に亡くなられたが
当時のことをふと、想い出すと・・・

時間に追われながら
ゾーン 】の中で遊んだことも思い出した。


私は子供のころから『 空 』が好きだった。

果てしなく広くて青い空。
形を変えながら流れる雲・・・

楽しいこと・辛いこと・喜び・悲しみ・・・
すべてを優しく包んでくれる
・・・自分にとって、ふるさとのような存在。


ゾーン 】の中でゆっくりと空を見上げながら・・・

私は十分に休憩していたのだと思う。



【了】



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