足もとに象 #エッセイ
スーツケースを引きながら谷町線のホームを歩く
久しぶりに通る駅にあの頃のような緊張はなくなっていつの間にか地元にいたときの感覚に近くなっているのが不思議だった
いつのまにか肌に馴染むアナウンス。黄色い点字ブロックまでお下がりください、響き方と湿度が高い地下の風で少しだけ声が揺れていることを聞き分ける
定刻通りに到着、この日曜日午前はダイヤの乱れがないらしい
昔よりも便利になった。便利って細分化されカテゴライズされることによって思考に当てるべき「余白」をわかりやすくしてくれた結果、決断をしやすくなり、時間が短くなるようで。
約12年前。あのころってやっぱり便利さを求めてたわけじゃなかったんだなぁと改めて想ったんですよね。刺激もあった。今も。新しいものはどんどんと驚かせてくれる。便利すらも新しかった。
今はボロ雑巾のようになってると思う。勿論ひどい言い方をしてる。
だれも知らないゴールへ旗をかがける。こっちの方が明るいよと、何回、だれかが擦り倒した表現かな
『街』の魅力は減った気がする。
自分自身がたくさんのことを知ってしまったからなのかもっと遠くにあって足を動かし探し回ることで見つかることのような気もいまだにするんです。
画面越しに顔から30センチ以内で見つかることで魅力までも細分化されてスリムになってしまった。
梅田駅でワッと人が降りてくる。このワッって感じもどこか穏やかな気がする。地下の道は新たに改装しているらしい。また新しくそしてより便利になる。
マスクをしていない人達が行きかう。
まだそれに違和感を感じる自分もいる。
万博が始まればさらに人がドッとやってくる。いかに潤滑に円滑にお金を回すかが大事なことかよくわかる。便利=お金。夢のない話ようである話。
しばらく揺られていると、岡本太郎さんの顔が窓の外に見えた。
せいかくにはスプレーで描かれた絵。
川沿いを走ると雰囲気が変わり始める。
時間がかかるのは不便なこととは違う。
どうして?
魅力があるから時間をかけれるのだと思う。もっと言えばこんなに便利さは必要だろうか?って。
充分便利じゃん、と。
何が不満なんだろ?不満ですらないのか
日が経つごとに必要とされることも増えて
誰かに答えを求めてた自分が、きっとあの街にいた。
決めたいことはそんなにない。
それでも決めなきゃいけないことは出てくる。
避けることもできるが、避けないことも選べる。
避けた方がいいことと避けない方がいいことが常に混在している
そんなもんさ、それでいい。
思考を使えるところは限られてる。
思考。使わせられないように気をつけて
あなたが考えるべきは本当にそこだろうか?だれのための思考だろうか?
だれにとっての決断たろうか?
答えだろうか?導いてる人は信じていいのか?
あの人のどこが好きで、あの人のどこが嫌いなの?
それはほんとにあの人なん?
ハッキリ言えないのであれば、よく考えるべきじゃないかな。
突発的な、事故のようなものは嫌いだ。
自分で決めていきたい。なるべくなら。
虹に魅力を感じなくなった僕は大人になってしまったのでしょうか?消えてなくなるものと分かってしまってからあまり好きに慣れない。ずっとすきでいたいからだ。半端な気持ちはすきくない
そーいうものを見つけたい。
すきはずっとそこに在る。どれだけ離れようとも存在している。
トンネルを通ると耳の中がキューってなるように、ここにくるといる。
列車の外は景色が流れる。止まってくれない。始まる前も後もあることにもう少し心を留めていたい。
いや並走していきたい。
それができればきっと、ちゃんと見届けることができるんじゃないかな。
短い道も遠い道も。
道は博く。
名前に想いをのせて
産まれた全てのことに感謝を
あのホームの足元に象を残してくれたあなたにも。
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