After you

先日新幹線に乗っていて、降車駅に近づいてきたので席を立ってドア付近にいた。
すでに人が数名いたので、最後尾に並んだ。
私が立っていたのは、開くドアとは反対側のドア付近だった。
ドアが開いて、人々が降り始めた。
私は続いて降りようとしたけれど、客席側から人が出てきたのを見て先を譲ることにした。
人々は黙礼をして降りて行った。

前に在来線に乗ろうとホームに立っていた。
2列で並べと書いてあるので先頭に並んでいたご高齢のご婦人の隣りに立った。
そのご婦人は転がすタイプのスーツケースを持っていた。
電車が来て、ドアが開くと同時に私は乗り込んで、ドアに近い席に着いた。
すると、ご婦人が「前から並んでいたのに、抜かさないでよ」と仰った。
降車駅に電車が着き、降りようとしたら、先程のご婦人がスーツケースで私の席の横を塞ぎ、
今度こそとばかりに先にお降りになった。
ご婦人が車中でずっと腹立たしくお思いだったことを知った。
ご婦人が通り過ぎてから、自分も降りた。

ある朝、私は電車に乗り遅れそうになっていた。改札までの道で、ベビーカーを押す人や、小さな子どもの手を引いて歩く人がいた。
歩みが遅い。
ただ、電車に乗り遅れそうとは言え、1本や2本見送っても乗り継ぎは可能だった。
私は親子連れの後ろを少し離れて歩くことにした。子どもたちの歩行速度が特に気にならなくなった。

時系列で並べ替えると、最初に書いたトピックが最新の私だ。子どもの後を歩いたのがそれより少し前の私。
この文章を書いていて、子どもの頃にアメリカに遊びに行っていた時に"After you"という言葉を聞いて覚えたことを思い出した。

別に急いでいない。
それなのに、なぜ、私は、子ども連れを追い抜こうとするのか、老婦人を怒らせてしまったのか、
その答えを探そうと思った。


そんなに急ぐ必要はなかった私の人生。
知らず知らずのうちに、私は人よりも早く歩こうとしていた。

病気のリハビリで、家からほど近い庭園に向かって歩こうとしていた。10分か15分もあれば行ける距離ではないかと思う。私は30分ほどかかって歩いていた。道路は十字路や信号が多い。都度都度立ち止まっているために時間がかかるのだった。
庭園の周りを歩くというのが目標で、一周すると私は1時間かかった。歩くスピードが極端に落ちていた。体力も気力も落ちていた。
庭園の周りを歩こうと向かったものの、庭園が見えた横断歩道で散歩を終了して帰ったこともある。

先日、富士山にほど近い場所にいた。
富士山こどもの国という公園である。
遊歩道の周りの丘にも芝生が植えられていて、
転んでも痛くないようになっている。
宵の口、霧が立ち込めてきて、先が見にくかった。私は出口を目指して探るように歩いた。
出口までは下りになっているから、分かりやすい道ではある。ただ視界良好ではなかった。
ふいに、私の後方から子どもがひとり駆けてきた。遊歩道ではなく、芝生の道なき道を一気に駆け降りていく。
子どもの頃に、夕刻の闇が迫る中走っていた自分を思い出した。追いかけっこの延長だったのか、家に帰りたかったのか、母に叱られたのか、何のために走っていたのかは分からない。しかし、私もあのように俊敏に走ったことがあった、それを長く思い出さなかった。
おそらく今後また思い出すことはほとんどないだろうとしばらく考えていた。その子どもとこの霧の風景が思い出させてくれたのだった。
子どもは振り返って家族を待っているようだった。

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