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登場人物Aの考え

言葉の受け取り方というのはさまざまだなぁと思わずにはいられなかった。そして「なんだかなあ」と思った。

言葉の受け取り方が決まっていることを平等に学べるのは学校である(別に塾やフリースクールでも良いんですが。子どもの頃に勉強や人間関係の構築を知る場の例という意味です)。数学には数学の解き方があり、理科にも理科の解き方がある。「公式」という便利なものまである。
「国語」も受け取り方が決まっている。小説でも評論でも良いけれど、
「この会話の心情は?」
「この比喩の意味するところは?」
「登場人物Aの考えを答えよ」
この答えは大抵ひとつしかない。
国語の答えはいくつもある、などと言う人がいるが、私はそれは嘘だと思う。
仮に先生がそう言っていて、いくつもの答えにマルをつけているのであれば、その先生がブレているだけ。先生、ちゃんと読んでます?と言っても良いだろう。
なぜ決まっているかというと、設問となる言葉の周辺で、その言葉がそこに来なければならない必然的シチュエーションが説明してあるからだ。そのシチュエーションを理解することで、やっとその言葉が理解できる。
なので、そのシチュエーションを書き手がわざわざ設定するのはなぜなのかということを常に考えて文章を読む必要がある。

これは、学校の授業に限らず生活にも応用できると思う。公式を応用したパターン学習で、社会生活を送る際の「お礼と確認」を忘れなければほとんどのことが上手くいくと知ることができ、会話をすることは相手の置かれた状況、言葉を発した理由を理解した上で自分の意見を述べてみることだと気づける。私は子どもに関わる仕事をしているので、子どもたちのつまづきを身近に感じてきた。「お礼と確認」は、少しのアドバイスで上手くできるようになる。ただ、状況や理由の理解は「お礼と確認」より練習が要る。

学校の授業内容も日常生活も全部「文脈」によって成り立っている。困ったことに、この文脈を理解するのに労力が要る。相手の言葉が発された。それを理解したいはずなのに、「私はこう思いたい」という私(自分自身)が登場したくなるからである。テストなら、当然「あなたの意見は訊いていない」という理由でバツになるだろう。自分の意見を書く(言う)のは、「小論文」や「ディベート」、「プレゼンテーション」を学ぶ際に大いに発揮すれば良い。質問文を読まなかったり、ディベートで相手の意見を受け取らなかったりするのは、もちろん論外である。

「国語」(「英語」でも良いのだが)における小説や評論の文章では、誰か(仮にAさん)とは違う意見の人(Bさん)を紹介したり、対比させたりしてある。〈Aさんとは違う〉という文脈でBさんを登場させますよ、と説明してある。なので、すっすっと読むことができる。
※補足したいが、言語を学ぶ教科において設問付き文章は大抵もとの文章の全文ではない。だから、教科書や問題集など設問付き文章として選ばれた時点で、もとの文章から切り取られており、切り取った人の理解のもとで設問が作られる。この時点で、もとの文章を書いた人(一般に作者、執筆者と呼ばれる人)は関係ない。

しかし、当たり前のことながら、誰にでも開かれた説明は日常生活にない。自分で自分に説明してやらねばならない。その時「『私はこう思いたい』という私」には、一旦引っ込んでおいてもらう必要がある。

🌈 🌈 🌈

前にもここで書いたことがあるけれど、小説や評論ではご丁寧に説明されていた部分、つまり「文脈」は、ネット上の文章には合わないと思う。
なぜ紙媒体を想定した文章とは違うのか。私はその答えを持っていない。ただ、使ってみて感じるのである。紙よりもっと余白が要ると。

余白だらけなのがTwitterだと思う。

で、何も伝わらない。
文脈がないからである。
文脈がないものを面白がって「いいね」するには、当座性/即時性の妙に感心するか、脈絡のない言葉だけを見て楽しむか(bot.など)、発信者の過去ログ等を辿ってある程度キャラクターを理解してみたりして(あくまである程度だ)、ある程度発信者の文脈をキャラクターやら職種やら好みやらで理解して押すか。
単に「見た」印として押す場合もあるが。

疲れたので今日はここまで。
急に言葉が溢れました。

一旦引っ込んでおく必要がある「私」が無防備に登場し、感情を曝け出してみせているのが、Twitterであり、止まらなくなってしまうのが一方的に送るDMですね。
学校や仕事や家庭ではなかなか出さない私がなぜか出てくる不思議。

なんだかなあ。

🍏 🍏 🍏

過去にTwitterなどについて書いた記事はこちら。ふたつに分けて書きました。
この記事では、藤井風さんを取り巻く状況を書きましたが、今回私が「なんだかなあ」と思ったのは、このアーティストを取り巻く状況というより、日々Twitterで起こり続けている現象です。政治不安、社会不安が根底にあるのかもしれませんが、あちこちで揺れ動き過ぎてて「なんだかなあ」と思いました。日々の暮らしそのものと精神的な平穏に困っている人が叫んでいるようにも思いました。
普段、私はTwitterをそんなに見ません。食事掃除洗い物など基本生活に時間がかかり、空を見て、風を感じ、意識的に深い呼吸をすることを頑張っています。昨夜書いた記事↑を読み直してここを付け加え、投稿します。

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