デューイ『民主主義と教育』(13章: 方法の本質 The Nature of Method)

今年の3月から月1回くらいのペースで、ジョン・デューイの『民主主義と教育』をじっくり読んで議論するゼミを私的に行っている。デューイは、ケインズや山田方谷と並んで、師と仰ぐ人物の一人だが、人生今後の人生で何を仕掛けていくかを考えるにあたって、今一度正面から対峙しなければならないと感じていた。

8年前に初めて読んだときは、暗中模索しながら考えていたことをクリアに表現してくれていて、半ば憧れの人という読み方をしていた。その後、教育の世界にどっぷり浸かりながら折に触れて参照していたが、経営コンサルタントに転職した今、教育から距離をとれたことで、デューイの哲学の弱点も含めて向き合い直すことができるようになった。

あくまで私流の解釈にはなるが、デューイの解釈をブログにまとめていきたいと思っている。デューイの哲学は、流行しているアクティブ・ラーニングやプロジェクト学習の思想的背景として紹介されることが多いが、それに留まらない示唆を与えてくれる。もし教育に関わっている方の眼に触れ、実践や政策の足しに少しでもなれば嬉しい。

なお、読書会は8章から14章を対象とし、教育実践家が参加者に多いという都合から、13章・14章をまず読み、8章に戻るという流れで行っている。そのため、第一弾は13章から紹介することにしたい。なお、読書会では、松野安男訳(岩波文庫)を使用している。

ざっくりいうと

教育や学習の文脈で、よく「方法」って言葉を使うけど、あれはどういう意味なんだろうね、っていうことをデューイが考えている章です。

デューイの最初の違和感は、「方法」だけ取り出して論じること多いけど、実は「対象」とセットで考えないとうまくいかなないのでは?ということでした。確かに現代でも沢山の「教育方法」が宣伝されていますが、どの方法で教えるかは、どんな内容を教えるかによるはずですよね。そこを方法論の議論だけするから空中戦になってしまう。それに気をつけよう、という忠告を受け取れて、身が引き締まります。

次に、デューイは「方法」ってひとくくりには論じられなくて、「一般的な方法」と「個人的な方法」の両方があるよな、と論を進めます。

一般的な方法は誰にでも使える方法のことです。日本の言葉でいうと、守破離の最初の段階で守る型のことに近いと思います。デューイは一般的方法が確かにあることを認めつつも、それが方法を使う人へ押し付けられたものであってはならないと釘を刺します。

これも現代に通じる警告です。例えば、エビデンスに基づく学習方法だから全員それに従うべし、というようなことを言う人もいますが、エビデンスは平均的に効果があるということでしかなくて、個別の生徒に役立つかはまた別問題です。もちろん、方向性を掴むのに、一般的方法(エビデンスに裏付けられた方法)は大事ですが、最後は個々の文脈に合わせてカスタマイズしないといけないんですよね。

最後は、「個人的方法」について述べていきます。個人的方法は、個々人の興味や特性によるので、研究で調べ尽くすことはできないよと前置きはするですが、そのあとなぜか学習者の個人的な方法なら、重要な点を4つ指摘できると言って、次の4つの大事さを主張し始めます。大部分の学習者に当てはまる話なら一般的方法では?と首をかしげつつも、確かに学習にとって大事な観点だなと思うところで13章は幕を閉じました。

1)自己意識過剰にならない
2)多様な考えを受容する
3)一つの目的に集中する
4)行動の結果への責任を引き受ける

13-1. 教材と教授法との統一(The Unity of Subject Matter and Method)

13-1では、生徒に何を教えるか(対象)と、生徒にどうやって教えるか(方法)の関係が考察されている。普通、内容と方法は分離できると考えられている。例えば、二次方程式を教えることと、知識構成型ジグソー法で教えることは、別個でそれぞれ考察されている。

しかし、デューイは対象と方法を分けて考えるのは危険だと主張する。確かに、対象と方法を区別して考えるのは考察の上では便利である。しかし、実態としては、対象と方法は分かれておらず、実態としては一つである。デューイは食事を例にとって次のように述べつつ、方法は対象の処理の仕方としてのみ存在するため、それ自体では存在できないとする。つまり、どんな対象でも効果的に教えられる万能の教育方法はなく、対象とセットで方法は考えるべきだ、ということをデューイは主張している。

人が食事しているとき、彼は食物を食べているのである。彼は、その行為を、食べることと食物とに分割したりしないのである。(p.264)

デューイは、方法だけを取り出して考察することで起きる弊害を4つに整理している。

1)教育方法が画一的になってしまう:本当は、教える対象ごとに最適な教育方法を考えないといけないのに、何でもある特定の方法で教えようとしてしまう。

2)興味について勘違いを引き起こしてしまう:対象と方法を一旦分離させると、生徒が本質的な意味での興味 -- 詳しくは10章で検討します -- を失ってしまうため、その代わりにアメとムチのような、教える内容とも教える方法とも直接関係ない、不純物が混じってしまうことを指摘しています。

3)学習活動自体が目的となってしまう:教師が教える対象と教える方法を分離していると、生徒にとっては学習活動と学習内容がスムーズに結びつかなくなる。そのため、生徒は自分で目的から逆算して活動をデザインする、ということができなくなり、なぜこの学習活動が必要なのかを理解できなくなってしまう。

4)機械的な学習がはびこってしまう:生徒は学ぶ方法を教師から指定されているので、学ぶべき内容に沿って、自分で方法を考えるということができない。その結果、ドリルで反復練習しろと言われると、言われた通りにやるしかなくなる。

13-2. 一般的な方法と個人的な方法 (Method as General and as Individual)

方法は常に対象とセットで考えるべきだと説いた上で、デューイが「一般的にうまくいく方法はないのかな」と問い直しているのが、13−2である。

まず、デューイは、どんな営みでも「守破離」が大切であると主張する。つまり、最初は「型」を守ることの重要性を説くのである。この最初に参考にするべき型のことをデューイは「一般的方法」と呼ぶ。

続いて、型にしたがうことは、誰かの命令に従うこととは全く異なり、個人の創意工夫を奪うものではない、と主張する。型に従うことは先人の知恵を踏まえて個別の文脈に適応することだからである。一般的方法は個々人の知性を発揮する場面を作り出すものであり、逆に、画一的方法を押し付けることには慎重にならねばならない、と釘を刺している。

13-3. 個人的方法の諸特徴 (The Traits of Individual Method)

デューイは、ある問題にアプローチする方法のことを「個人的方法」と呼んでいる。個人的方法は、本性と興味と訓練によって決まり、誰もがOnly oneなので記録し尽くすことはできない、と前置きした上で学習内容(教材)にどう取り組むか、という態度についてなら重要な点を指摘できると主張する。以下、デューイの生々しい記述とともに4つを紹介しよう。

1)自己意識過剰にならない

自意識過剰や当惑や気兼ねは、それを脅かす敵である。それらは、人が教材に直接関心をもっていないことを示す。関心を枝葉の問題へ逸脱させる何かが割り込んでいるのである。

2)多様な考えを受容する

知的成長は、絶え間ない視界の拡大と、その結果として生ずる新たな目的と新たな反応の形成を意味するのである。これらのことは、これまで縁のなかった観点を歓迎する積極的な性向、現存する目的を修正する考慮を受け入れようとする積極的な要求なしには、不可能である。

3)一つの目的に集中する

専心、没頭、教材そのもののために向けられた十分な関心がそれを育てるのである。分裂した興味やごまかしはそれを破壊するのである。(p.279)

4)行動の結果への責任を引き受ける

人は、自分に言われたことの言外の意味を考えなかったとき、つまりそれを容認することによってそれ以後どんなことに係り合うことになるかを粗略に表面的にしか調べなかったときに、他人の説を受け入れ、他人が暗示した真実を信じ込む、ということは、遺憾ながら想像に難くないことである。そのときには、観察も認識も、確信も同意も、外部から与えられたものをただ鵜呑みにすることに付けられた名称となるのである。(p.283)


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