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ハンナ・アレント『カント政治哲学講義録』読書ノート(前編)

ハンナ・アレントの『カント政治哲学講義録』は、「政治哲学」と名のついた書物を残さなかったカントの政治哲学を、『判断力批判』を中心に読解することで再構築する野心的な試みです。

アレントの独創的なカント解釈は、政治を捉え直す視座を与えるとともに、教育の位置付けについても示唆を与えてくれるため、非常に重要だと思っています。読書ノートは、アレントの講義と私の感想から成ります。なお、各講義のタイトルは原文にはありませんでしたが、参照のために私がつけました。また、長くなったので、〜第六講義を前編、第七講義〜第十講義を中編、第十一講義〜を後編にして3つに分けます。

第一講義:なぜカントの政治哲学を論じるのか?

カントは政治哲学を体系的には論じていません。そのため、アレントが講義する時点では、「カント」と「政治哲学」を結びつける糸は極めて細く、すぐに切れてしまいそうなものでした。

そのため、第一講では、カントの政治哲学を論じる上で参考になる先行研究はほとんどないことに触れた上で、カントの政治哲学を論じるということそのものに向けられそうな批判について予め応答しています。

ここは哲学研究・哲学史に興味がない人にとってはあまり興味を引くところではないので、割愛します。ただし、カントが「進歩」という概念を憂鬱なものとして捉えていたという点は重要です。アレントが引用したカントのテキストを孫引きしておきます。

究極目的への無限な全身という表彰はじつは同時に諸悪の無限な系列を予想することでもあるのだ。そのため … 満足が生じることはないのである。

近代に特徴的な「進歩」という概念が憂鬱なものであるのは、現在においていま・ここを重要視するマインドフルネスが隆盛することと裏表でしょう。教育においても、良い生徒は常に「進歩」を目指していなければならないとされます。例えば、高校生の間は大学受験のために、大学にいる間は就職のために、といったように常に「未来のための今」を生きているのが、真面目で優秀な生徒だ、という合意があります。こういった時間構造のもとで生きることは極めて憂鬱なものです

第二講義:カントが問うていたものはなにか?

理性のスキャンダルを解決するために『純粋理性批判』を書き上げたあとの晩年のカントにとっては、「社交性」と「人間が存在する目的」の2つが最重要の問題になったとアレントはいいます。

カントの「社交性」は通常の意味とは異なります。カントは「社交性」という言葉で、他者と交流することなしには思考することができないという事実を表そうとしています。

一方、カントにとって「そもそもなぜ人間が現に存在しなければならないのか」という問いも非常に重要でした。アレントは、この問いは原因(cause)を問うものではなく、目的(purpose)を問うものであると解釈します。目的を問うものである以上、「すべての目的がそうであるように、自然、生命、あるいは宇宙それ自体を超えたものでなければなりません」とアレントは付記しています。

アレントが明確にいっているわけではないのですが、こうした問いに答えるために『判断力批判』が書かれたのでしょう。アレントは、『判断力批判』は普遍的なものではなく、特殊的なものを扱っている点で『実践理性批判』と大きく異なると指摘します。カントは『実践理性批判』で普遍的な道徳を探究しましたが、探究のゴールは人間だけではなく、理性をもったあらゆる生き物(叡智的存在者)なら誰でも思考することでたどり着ける道徳を描くことでした。一方、『判断力批判』では「規則は地上に生きる人間に限定」されます。

アレントによれば、特殊的なものを扱う『判断力批判』で、カントが取り上げた以下のテーマは政治的な意義を持っています。

・自然の事実や歴史上の出来事といった特殊的な事柄
・その特殊的なものを扱う人間の精神の能力としての判断力
・判断力が機能する条件としての社交性

なぜ判断力が政治に関わってくるのでしょうか。道徳的判断が理性から生じるのと異なり、判断力は「趣味」から生じるという点が重要です。というのも、趣味は共感(sympathy)を呼ぶからです。

また、カントは『判断力批判』の中で、憲法 - いかにして一つの人民を一つの国家へと組織するか - という問題を考えていました。アレントによれば、確かにカントは歴史や社交性について若い頃から考え続けてきたが、それは憲法というこの定式のもとに再浮上したとみたほうがいいと語っています。

第三講義(前半):悪い人間とは誰か?

アレントはカントが「道徳性」と「善き市民性」から分離していたと見ています。つまり、カントは「悪い人間でも善い国家においては善い市民となりうる」と考えています。

また、アレントは、カントの考察を踏まえて「悪い人間とは、自分自身を密かに免除し、例外を設定する者のこと」であると洞察します。例えば、嘘をつくとき、一般的には嘘はついてはいけないが、自分だけは/この状況ならば嘘は許されると考えます。なぜなら、一般的に嘘をつくことを容認してしまうと、約束という概念が意味を失うからです。盗みも同様です。盗みについて語るとき、盗み一般を正当化すると、所有という概念が意味を失います。

以上の考察から、カントの政治哲学のポイントは以下の3つにまとめられる、とアレントは指摘しています。

1. 自然の偉大な目的のため、利己的な大多数の人々は意図せず公益的になる
2. 政治における改善には、道徳的改善や精神的革命は必要ではない
3. 悪は定義からして密かなものであるため、公共性(publicity)が重要

利己的に振る舞う人間は全体としては合理的であるという考えは、アダム・スミスを始めとして多くの人に見受けられます。この背景には、人間は利己的であるという観察結果と、神/自然がつくった世界は全体として合理的であるという信念があるといっていいでしょう。こうした前提があれば、利己的な人々を利他的に変える必要はありません。政治に道徳教育は必要なくなるのです。なお、国家の要諦の根本に仁・義・礼・智・信といった道徳的教育を置く中国・日本の思想とは根本的に異なる点は面白く、さらなる考察に値するテーマかもしれません。

第三講義(後半):自己への関心か世界への関心か?

カントは、哲学にとって中心的な問いを「私は何を知りうるか?」「私は何をなすべきか?」「私は何を望むことが許されるか?」の3つに設定しました。アレントによれば、これら3つの問いはどれも自己関心であって世界に対する関心ではないという共通点を持っています。

彼が提起した基本的な哲学の問いのいずれも、人間の複数性(plurality)という条件について言及することさえしていない

カントの考え方の象徴的な例が、「人間にとって最大の不幸は自己蔑視である」とカントが語っている点です。

「自己是認を失うことが、私の身に起こりうる最大の災い」であって、他人からの尊敬を失うことが最大の害悪ではなかろう

私はカントのこの立場に深く共感しますが、教育界で自己肯定感や自己効力感といった概念が注目されていることもカントのこういった考え方と表裏一体でしょう。そう考えると、こうした考え方は、自分をまずは大切にする考え方であって、世界に目を向けているわけではないという点には留意が必要でしょう。注意したいのは、世界への関心のほうが自己への関心よりも大事だということではなく、自己肯定感について語るとき、世界への関心は無意識に思考の外に置かれてしまっていると意識することが重要だ、ということです。これは生徒の一歩先を見据えて生徒と関わる必要がある教師にとっては非常に重要なことであると考えられます。

さて、アレントは古代から哲学者が政治について語るとき、政治は個人の自己充足のための手段として見なされることが多かったと指摘しています。言い換えれば、政治的生活(bios politikos)は、最終的には観相的生活(bios theōrētikos)のためにあると考える傾向にあったと指摘します。例えば、プラトンが哲学者が王になるべきだと主張したのは、哲学者にとって必要な完全な平穏を保つために必要だったからだとアレントは指摘しています。哲学者が自己関心を貫徹させる生き方をするためには政治に関わる必要があった、ということです。現在、現代の政治的左右の対立もこの考え方を踏まえて見てみると面白い洞察が得られるかもしれません。これからの日本では、哲学者は政治に関わることなしに、哲学に打ち込み続けることができるのでしょうか?(人文科学への国家の投資や、市民のリベラルアーツ的な素質と深く関わる問いだと思います)

第四講義(前半):人生は憂鬱か?

カントは哲学者ですから、カント以前の哲学者が考えてきたことに影響を受けています。アレントは、カントがほかの哲学者との共通点はなにで、相違点はなにか、という哲学史的なアプローチを第四講義で試みます。

アレントによれば、カントは伝統的な哲学者とともに、生について悲観的でした。それは、地上の生は、憂慮、心配、嘆き、悲しみに満ちており、苦痛と不快が快と満足を常に凌駕しているという考え方です。カント自身は人生とは、最良の人間でさえ、自らの生を喜ぶことのできない試用期間であると書いています。

第三講義では、カントは世界への関心よりも自己関心を重視した哲学者だという点に触れましたが、その点から考えると奇妙にうつるかもしれません。アレントはカントがこの自分の考えの癖を自覚し、克服しようとしていたことも指摘しています。アレントは以下の記述はカントが自分の考えの癖をスケッチしたテキストであると読んでいます。

彼は自分を尊重し、自分を尊厳に値するものとみなす。彼はさしたるさもしい従属にも耐えられず、気高い胸中に自由を呼吸している。[......] 彼は空想家や変わり者になる恐れがある。

のちほど触れるように、判断力が「共通感覚」を基礎にするものであることから考えると、アレントの指摘は重要です。牽強付会かもしれませんが、学者が政治に関わるとろくなことがない、という「常識」も同じ問いの延長線上にあるといえるかもしれません。特に、高等教育政策を考える上では、これは非常に重要な論点です。

第四講義(後半):カントは”人間”をどう見ていたか?

第一のカント特有の考え方として、アレントは「進歩」の概念を挙げています。歴史全体、人類全体の進歩を視野に入れて考えることで、特殊的なものを度外視し、普遍的なものに目を向けることができます。ただし、アレントは「それ自体としては意味のない特殊的なものから、特殊的なものの意味の源泉である普遍的なものへの、いわば逃避」と手厳しいです。

第二の考え方は、「道徳的存在者としての人間」です。アレントによれば、人間を道徳的存在者としてみるとき、人間自身が目的それ自体となるため、なぜ人間は存在するのかと問うことはもはやできなくなります。これは『実践理性批判』に特徴的なテーゼですね。

一方、第二講義・第三講義でみたように、『判断力批判』では今この地球に生きている人々を対象とした考察がなされていました。アレントはこのことも踏まえて、以下3つのパースペクティブを区別して、カントを読み解かなければならない、と主張します。

・人類とその進歩
・道徳的存在者かつ目的自体としての人間
・複数形の ”人々 men”

以上3つのうち、政治が明らかに、複数形の ”人々 men”に関わるのは明らかでしょう。この3つを区別することが重要なのは、カントが人類とその進歩や道徳的存在者としての人間について語っている部分を分離した上で、カントの政治哲学に接近できるからです。

第五講義(前半):哲学者は特別な人か?

アレントは、カントと他の哲学者の比較を続けます。カントの特殊な点として「哲学者を特別視しなかった」点をアレントは挙げます。

カントにとっての哲学者とは、哲学者仲間だけで生活するのではなく、みなさんや私と同様に、普通の人間仲間と共に生活する普通の人間であり続けます。[......] カントは、一度でも生について反省したことがある良識の人でさえあれば、あらゆる普通の人が、快/不快という観点から生を評価する仕事を担うことができると考えてちょい、と主張しています。

哲学者を特別視しないことは、多数者と少数者を対置しないことにつながります。これは、プラトンの哲学王という考え方を消失させます。なぜなら哲学王が必要だったのは、多数者に対して哲学者を守ってくれる権力や憲法が必要だったからです。そのため、カントの結論は「支配者が進んで哲学者の言葉に耳を傾けるべきだ」というやや控えめなものになります。

第五講義(中盤):世界は美しいか?

カントは快適であり続ける人生はありえないということを示唆しています。なぜなら、快適であり続けると快適であると感じることができなくなるからです。私たちの人生には多かれ少なかれ、不満足が必要なのです。アレントは欠乏が大きければ大きいほど、不快が大きいほど、快適も強烈になるということすらカントに読み込んでいます。おそらく、多くのSFで安楽機会 - 科学的物質によって脳を刺激し、快楽を感じさせ続ける機械 - がディストピア的なものとして扱われているのはそれゆえなのでしょう。

それに先立つ欠如の記憶に悩まされることなく、また、その後に確実に生じる損失の恐れに悩まされることもない全く純粋な満足などありえない

しかし、カントは「美」だけは別であると考えていたのだ、とアレントは論じます。美に直面したときに感じる快を「没利害的な満足」と呼んで区別しています。アレントは「世界における諸物の美」という事実が重要な役割を演じることになる、と指摘しています。言い換えれば、カントは「世界は美しい、従って人が生きるのに相応しい場所」であると考えていたと、アレントは読解しています。私の好きな歌手のamazarashiがライフイズビューティフルという曲で「人生は美しい」と歌い上げるのは、カントのこの洞察と軌を一にするといってもいいかもしれません。

第五講義(後半):なぜカントは「批判」をしたのか?

続いてアレントは、カントが「批判」というタイトルを選んだのかを考察していきます。些細な点に見えるかもしれませんが、このあとアレントはカントの政治哲学において「批判」という考え方が重要であることに何度も触れていくことになります。現代の教育で言われる「批判的思考」と似ているけれども異なる、このカント的「批判」を理解することは非常に重要です。

まず、批判という言葉の背景には、偏見からの自由、権威からの自由といったものがあります。いきおい、カントは「自立的思考」、つまり「自分自身の精神を使用すること」を重視します。これは現代において、「主体性」や「能動性」が重視されることと、本質的には同じことであると思います。ただし、現代では主体性や能動性といった概念は汚染され、つくられた主体性であり、目的が外から与えられる能動性になっている点に注意しなければならないのですが。

現代は、すべてのものがしたがわねばならない批判の本来的時代である。宗教………そして立法は、共通に批判から免れようとする。しかしその際、両者は自らに対するしかるべき嫌疑を引き起こし、偽りのなき尊敬を要求することはできない。尊敬とは、理性がその自由で公開の吟味に持ちこたえるこ
とができたものにのみ是認するものである

アレントは、独断論的形而上学、懐疑論の両方に対立する第三の道が「批判的思考」(Critical Thinking)だったと考えています。少し長くなりますが、アレントの記述を引用しつつ説明します。

私たちは皆、何らかの形で独断論的なところから出発します。哲学において独断論的であるか、あるいは、なんらかの教会の教義や啓示を信じて一切の問題を解決しようとするかのいずれかである、という意味で独断論的です。

独断論的というのは、根拠もないのに信じ込んでいるといった意味です。最初のところでは私たちは根拠があるからなにかを信じるのではありません。私たちは根拠なしに単に信じているのです。

こうした自らの内なる独断論に対する、最初の反作用が懐疑論です。この反作用は、そのいずれもが自分こそが真理それ自体(the truth)を所有すると言い張る、多数の教義(many dogmas)を不可避的に経験させられることによって引き起こされます。懐疑論は、真理のようなものはなく、したがって私はある独断論的な教説を恋意的に(arbitrarily)選択してもよい、という結論に通じる可能性があります。

それぞれの人間が根拠なしに信じていることがあるとすれば、私たちは成長するにつれ、異なる「真理」と接することになります。もしかすると、学校に閉じ込められていた子どもたちが、次第に学校の外で語られる真理や正義に接するにつれ、学校を信用できなくなっていくプロセスとも無関係なものでもないかもしれません。また、全てが相対的だと論じる傾向 - それはポストモダン的と言われますが、カントが対決したモダンの初期に広まった考え方でもありました - は懐疑論から出てくることになります。漫画やドラマでしばしば悪役が「この世には善も悪もない(から私は悪に見えることをやっている)」と主張するのもこれと近い話でしょう。

批判の立場は、この両者に反対します。批判は謙遜さによって、自らの存在をアピールします。以下のように言うことでしょう。「たとえ人間が、自らの精神的プロセスをコントロールするために真理の概念あるいは観念を持っているとしても、有限な存在としての人間には、恐らく、真理それ自体を保有する力はないだろう。しかしその一方で、人間が、自分たちに与えられているあるがままの諸能力を探求することは全くもって可能である --- 私たちはそれらの諸能力が、誰から、どのようにして与えられたか知らないが、私たちはそれらの能力と共に生きねばならない。だから、私たちが何を知りうるか、そして何を知りえないか分析しようではないか

つまり、カントの「批判」は、真理が存在するか否か、そしてある特定の真理と称されるものが真理であるか否かを問題にはしていません。むしろカントは、我々に与えられた能力を分析することによって、我々の限界はどこなのかを探ろうとします。真理があっても知り得ないなら、真理について議論する価値はないからです。この一歩下がって、対決する両者の前提を問いに付そうとするのが「批判」なのです。私がさきほど、カントの「批判的思考」は、教育で語られている「批判的思考」とは異なると論じたのはこのためです。

第六講義:言論の自由はなぜ重要か?

第六講義はカントの批判の帰結を語ることから始まります。メンデルスゾーンはカントを「一切の粉砕者」と呼んだようですが、アレントもカントが近代に至るまで持続した形而上学の機構全体を破壊したことを認めています。

ただし、カント自身は自分が破壊したのは、諸学派の主張であると考えているのでした。カントの諸学派に対する目は厳しいです。言い換えれば、学者が象牙の塔で仲間内にしか通じない議論をしていることに厳しいです。それゆえ、カントは政府は諸学派を助けるよりも、批判の自由を支援することに重きを置くべきだ、と主張します。

(もし政府が干渉するのが適当だと考えるのであれば)諸学派の剛笑すべき専制を支持するよりも、.…そうした批判の自由を助成する方が遥かに賢明だろう。これら諸学派は、彼らのもろもろの蜘蛛の巣(諸体系·諸思想)が引き裂かれる場合には、公共の危険について大声を挙げるのであるが、けれども公衆は彼らの蜘蛛の巣には一度たりとも注目しなかったのであり、したがって、その損失を感知することも決してできない」

カントが批判を重視したのは、元をたどればソクラテスに行き着きます。アレントは、カントが最終的に残したのは批判であって、体系ではなかったと主張します。ところで、ソクラテスの方法は「相手から全ての根拠付けられていない信念」を除去することにありました。

ソクラテスは何も教えませんでした。彼は自分が立てた問いに対する答えを知らなかったのです。彼はまさに吟味のための吟味を行ったのであり、知識のために吟味したのではなかったのです。

ソクラテスの吟味は、吟味それ自体が目的であり、なにか特定の主張のために吟味していたのではないのです。ソクラテスは主張すべきことはなかったのです。ではなぜソクラテスが吟味したかというと、「吟味を経ていない生活は生きるに値しない」からだったとアレントは主張します。これは驚くべき人生観でしょう。しかし、こう評されると驚くべき人生観であったとしても、価値観の尊重や、対話や、ファシリテーションといった現代の教育を語る上で外せない概念は、ソクラテスの系譜の上にいます。あるいは教師は生徒の声に耳を傾けるときに自らの主張をカッコに入れなければならないという命題もまた然りです。私はこういった主張に深く共感しますが、これらの主張がある程度ラディカルであることを意識しておくことも重要です。

さて、ソクラテスがやったことの本質は、アレントによれば、”私”の中で閉じている思考のプロセス を言葉を使うことで公共のものにすることでした。ここでは言葉が決定的に重要です。考えを言葉にすることで、無矛盾の公理 - カントはこれを一貫性の規則と呼びましたが - を適用できます。カントの倫理学においても思考と行為の両方に「自分自身と矛盾することなかれ」という原則が適用されるという点で、ソクラテスの延長線上にあります。

しかし、最も重要なソクラテスの意義は、ソクラテスがいかなる宗派/学派をも作らず、いかなる宗派/学派にも所属しなかったことにあります。

ソクラテスが「哲学者 the philosopher」の象徴となったのは、彼が市場にやって来る全ての人を相手にしたからです。彼は全ての質問者に対して、彼の発言に説明とその実行を求める全ての要求に対して、全く無防備にオープンな態度を取っていました。

学問が独断論に陥ってしまうのは、それらがその創始者の教説に依存しているからです。確かにそれらの学派は「公共の意見 = 世論 public opinion」と対立していた点では権威から自立していたように見えます。しかし、創設者の権威へ訴えることによって、彼らもまた別種の権威をまとっていたのです。

別の言い方をすれば、多数者の思考停止的(unthinking)な独断論に対して、少数者のえり抜きの、ただし同様に思考停止的な独断論が対抗していたのです。

アレントは、ソクラテス=カント的な批判的思考は反権威主義的であり、かつ形がなく掴むことができないという点で当局にとって最悪であると評しています。ここにカント政治哲学の真骨頂があります。ある意味で、カントの政治哲学は革命的とも言えます。独断論的思考は半権威主義的な思想を広めることもあるかもしれませんが、それには形があるので取り締まることができます。しかし、批判的思考には主張がないので、そういったことはできません。アレントはソクラテスが死刑になった理由の一つ「青年を堕落させた」という言葉の意味を以上のように解釈しています。

また、カント=ソクラテス的な批判的思考の重要性は、「自由かつ公開の吟味」を求める点にもあります。さきほど見たように、カント=ソクラテスにおいては、自らの思考は、多くの人と対話し、矛盾点を解決し、練り上げることができるものです。それゆえ、最も重要な政治的自由は、言論及び出版の自由となります。

ただし、カントのユニークな点は言論及び出版の自由を最重要視した点にはありません。カントの独創性は、思考する能力それ自体が他者なしには考えられなかったと考えた点にあります。第三講義で、カントの哲学が自己関心のもとにあった点から考えると、これは驚くべき変化ですね。

彼は、思考する能力それ自体が、その公共的使用に依拠していると考えました。「自由かつ公開の吟味という試験」なしには、いかなる思考も意見形成も不可能だというのです。理性は、「自らを孤立させるのではなく、他者との共同性を形成するように」できているのです。

また、カントは他者なしには思考できないだけではなく、他者に伝達できないものは真理ではない、とも考えていました。これを「一般的伝達可能性」と呼びます。アレントはヤスパースの言葉を借りて、「真理とは私が伝達しうるもののことである」とも言っています。

(中編に続く)

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