謙虚と卑屈、謙虚と傲慢の差異 - 小学生・高校生との対話を経て至った仮説 -
1. 問い
日本人を喋らせるのは、インド人を黙らせるのよりも難しいとジョークでよく言われる通り、「日本人は主張が弱い」としばしば考えられている。確かにあまりにもステレオタイプかもしれないが、この命題は一定は正しい。それゆえに、これからの国際社会で生きていくためには、日本人は自信を持って自分の考えを発信できるようにならなければならないと言われる。
一方で、日本人の謙虚さは美徳とされる。欧米でもソクラテスが説いた「無知の知」が礼賛されるように、謙虚さはリーダーにとって重要な資質だと考えられている。それゆえ、理想的なのは、謙虚さと自己主張の強さが一人の人間の中に同居していることだろう。それでは、それは如何にして可能なのだろうか。恐らく、多くの人がどこかで直面する問いである。
あまりにも謙虚であろうと意識しすぎると、それは卑屈さにつながる。卑屈な人間にリーダーになってもらいたいと考える人は少ない。しかし、リーダーは謙虚であるべきだと考える人は多い。それでは、卑屈さと謙虚さの差異はどこにあるのだろうか。
しばしば、強いリーダーシップは傲慢な人間の特権だと考えられている。自分の考えを強く信じ、周りの人間に自説を力強く開陳し、説得する。そうして組織を自分の思い描いている方向に動かす。まるで船を操る船長のように組織を動かす人間。そういう人間を理想のリーダーだと思う人は多いかもしれない。だとしたら、こうした傲慢さは謙虚さと何が異なるのか。
2. 仮説
以上の問いは、私が人生を通して考え続けてきた問いの一つである。リーダーになる機会が多い人間は、こうした問いから避けて通ることができない。難しい局面であるほど、謙虚さ、卑屈さ、傲慢さの関係が曖昧であるがゆえに、それは自分を甘やかす根拠にもなるからだ。
例えば、自分の判断に自信が持てないことがある。不確実で不透明な状況に置かれることは誰にでもあるのだから、自信を持てないことそれ自体は問題ではない。しかし、問題は自信が持てないときに「謙虚さ」の美徳を発揮することを言い訳にして、「自分は答えを知らない。だから皆と議論しよう」と考えてしまうことだ。私は嫌というほど、自分のこの弱さを味わってきた。この場合、議論しても答えは出ない。それどころか、幹が弱いのに枝葉ばかりが増えてしまった樹木のように、議論すればするほど組織は弱く細っていってしまう。
一方で、自分の賢さを過信しすぎてしまう局面も何度もあった。完璧な人間なんていない。そう頭では分かっていながらも、初期仮説を修正するような情報を集めず、仮説にそった情報や見解で塗り固めてしまう。そうした「傲慢さ」は避けるべきだが、「強いリーダーシップ」の美名のもとに正当化をついついしてしまう自分もいる。後から振り返れば有り得ない情報収集を、強いプレッシャーにさらされ、信頼できる人ばかりではない環境で戦っていく中では、無意識にやってしまう。
それでは、謙虚さと卑屈さ、謙虚さと傲慢さの差異はどこにあるのか。私の仮説はシンプルだ。それは「自分の仮説への自信」「異なる見解の傾聴」の二軸で整理できるというものだ。試みに、以上2軸をとったマトリックスを書いて整理してみよう。
謙虚な人間とは、自分の仮説に自信を持っており、かつ異なる見解に対しても傾聴できる人間のことである。自分の仮説に自信があるからこそ、異なる見解を傾聴する場合も、全てを受容して取り入れるのではなく、自らの仮説を起点にして取捨選択ができる。一方、異なる見解を傾聴できるから、仮説に自信はあるものの、常に仮説の誤りは修正され、進化を続ける。これは言葉で書くと簡単に見えるが実行するのは恐ろしく難しい。そう在ろうと決めた人間ならその難しさは分かってくれるはずだ。
卑屈さに足りないのは、自分の仮説への自信である。自信がないから、周りの意見を聞いて流されてしまう。卑屈な人間にとって、常に周りがどう考えているかがいつのまにか判断の根拠になってしまう。謙虚な人間は、自分の意見も他者の意見も「同じくらい」大切にする。「同じくらい」が鍵を握っている。同じくらい大切にするので、自分の意見が勝ることもある。しかし卑屈な人間は常に他者の意見が自分の仮説に勝る。だから、他者と議論を重ねても、右往左往するばかりで積み重ならない。
傲慢な人間が異なる見解を持った人に対して傾聴の姿勢を示せないのはさして不自然なことではない。しかし、傲慢な人間の本質が、異なる意見を取り入れられない点にあるとはするならば、傲慢な人間は強いリーダーシップを一時的に持てはするが、それは継続しないことも理解できる。なぜならば傲慢な人間の仮説は進化しないからだ。傲慢な人間は「出落ち」キャラクターなのである。最初のインパクトが肝心だ。だから傲慢な人間は次々と組織を乗り換える。どの組織でも最初の打ち上げ花火は綺麗に魅せられるから。だがそれは、リーダーシップの持続可能性を失わせる選択である。
ちなみに、自説に自信がないにも関わらず、他の人の意見も聞こうとしない人間は何と呼んだらいいのだろうか。あえて名付けるとすれば、それは「ウジウジしている」状態だといえる。それは、最初の一歩を踏み出す勇気がないことを意味しているのではないだろうか。
3. 仮説に至った契機
謙虚さと卑屈さ、謙虚さと傲慢さ。長年考えてきた問いに光が見えたのは異世代との対話をする機会がここのところ、偶々重なったからである。この前は高校生と、今日は小学生と話す機会に恵まれた。それも単なるおしゃべりではない。それなりに重要な問いをめぐってなされた、真剣さも含まれている対話である。
私は対話をしながら、異世代と話すときにこそ、自分の本質が現れると感じた。年下だからといって手を抜く者は、実際のところ卑屈である。自分の予想できない角度から返答がきたときに、自分の仮説が揺らぐことを恐れているからだ。弱い犬ほどよく吠えるの変奏である。一方、年下だからといって説教しようとする者は傲慢である。こちらはしばしば言われる話であるが、年下から学ぼうとしない者は進化しない。それは持続性のない傲慢な者そのものの特徴である。
一方で、年上と話すときも同じである。年上だからといって、全ての意見を唯唯諾諾と肯定する者は、結局のところ卑屈である。ときには自説に魂を載せて、年上にもチャレンジしなければならない。もちろん、年上を全否定する態度は傲慢である。これからは若者の時代だ、上の世代の価値観は古いと全否定するのは、疑いもなく傲慢である。多様性を掲げながら「おじさん」の価値観を鼻で笑うような人間にだけはなりたくない。
以前は、年上と話すときも、年下と話すときも、謙虚さと傲慢さ、謙虚さと卑屈さを行ったり来たりしていた気がする。理想の謙虚な状態で在り続けられた瞬間は、人生を振り返ってもそうない。だが、このところ意識しなくてもそう在れている感覚があった。ただし、それは年上と議論することが仕事上、多くなったからかもしれないと思っていた。
しかし、今回、年下と真剣に議論するタイミングでも、同じ感覚を無意識に掴めた。自分の意見は控えることなく、真っ直ぐに伝える。しかし相手の意見を傾聴し、理があると思えば、自分の仮説をすぐに修正する。これをどんな相手との対話でも無理せずできるようになりたい。
本当に成長したのかどうかは、対話する相手に判断してもらうことなのかもしれない。ただ、私としては、その理想に少しでも近付けたように思う。もしそうならば、この機会を恵んでくれた親友のS氏には感謝しなければなるまい。そういう友人、そういう環境に恵まれているのが、私の人生で最も幸福なところだろうとつくづく思う。誰でも参加できるので、興味がある人はぜひ参加してみてほしい。何を得るかは参加するあなた次第だと思うが、謙虚に学べば必ず得るものがあるに違いない。
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