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松尾芭蕉の俳諧論を補助線に、学びの在り方を考える(勝負・遊び・求道・探究)


教育が変わりつつある。いまや、教育という概念が座っていた玉座には、アクティブ・ラーニング、探究学習、問題解決型学習、プロジェクト学習、プレイフル・ラーニング等、新しい概念が同床異夢の状態で在る。

新しく玉座に座ろうとする概念に共通するキーワードがある。それは「楽しさ」である。いままで、学校で展開される教育が苦痛なほど楽しくなかったため、新しい教育はそれを否定して楽しさを自身の売りとする。

例えば、今話題のMIT Media LabにはLifelong Kindergartenという研究プロジェクトがある。直訳すると「生涯続く幼稚園」であり、Playful(遊び心)をキーワードにしている。Scrathという、楽しくプログラミング的思考を学べる教材開発で有名なラボだ。
日本でも、上田伸行教授(同志社女子大学)が「プレイフル・ラーニング」という本で、新時代の学びの中核的なコンセプトとして、遊び心(Playful)を位置づけている。それゆえ、ワークショップなど、新しい学びのかたちを模索している実践者は一度は「遊び心」という概念に触れたことがあるはずだ。

知識を詰め込まれ続けることに人間は慣れていないことは、認知科学の幾多もの研究が実証している。だから、教え込みはそれ自体では楽しくないため、学び手のモチベーションを担保できない。そこで持ち出されるのは「競争」であり、「勝負」であり、「特典」である。その象徴がペーパーテスト型の受験だと感じる人も多くいるだろう(それには留保が必要だが)。

こうして、「勝負=競争」となった教育を立て直すために、「遊び」という概念が生み出されたのであった。そこでは「楽しい」という感情や、「遊び心」が重視される。

とはいえ、遊び概念には、勝負=競走的ではないものを十把一絡げに「遊び」に統合してしまう危うさがある。いまの教育に批判的であればあるほど、そこからの距離で新しい教育を定義してしまうからである。

本稿は、これまでの延長線上に未来を考えるのではなく、いったん俯瞰するための文章である。自分たちが受けてきた教育を否定して、新しい教育を考えるための文章ではない。人間がなにかを学ぶということを根源的に突き詰めたあと、その視座からいまの状況を見直してみるのである。

ここで時代もジャンルも違うが、松尾芭蕉に注目したい。その理由は、第一に私が好きでよく見知っているからであるが、第二に、芭蕉の俳諧論には学びの本質が隠されていると思うからである。

松尾芭蕉の俳諧論

芭蕉が俳諧を分類した面白い文章がある。その文章にあたりながら、「遊び」のほかに「競争」へ対抗できるコンセプトはないのかを考えたい。

いまから読むのは芭蕉が門人にあてた手紙である。手紙の中で、芭蕉は俳諧を3つに分類する。第一に「勝負」、第二に「遊び」、第三に「求道」だ。それぞれに特徴があり、相互に異なっている。

(私訳)
俳諧に携わる者の態度は、だいたい三つに分類できます。
(原文)
風雅の道筋、おほかた世上三等に相見え候。

1. 勝負

第一の勝負は、点取り合戦である。

俳諧の世界にも「点数」を目的としたものがある。江戸時代には点数を目的とした俳諧がむしろ主流だった。自分の句を披露し、有名な先生に点数をつけてもらう。その点数で競うのである。まるで、学校でテストの点を競うことと同じではないか。

芭蕉は、点取り俳諧を痛烈に批判する。なぜか。ここでは点数が目的となっていて、誰も俳諧そのものを見ていないからだ。点取り俳諧で皆が見ているのは評価者である。

教育の例で考えてみよう。テストの点数が目的になると、学ぶ内容自体から目がそらされてしまう。どんな内容であっても、テストに最適化して点数が上がればいいとなってしまう。そのとき、子どもたちの目には、言葉を身につけることで世界が自分に近付いている感覚も、数学が世界の謎を明かす妖艶さも、英語が拓く世界の広さも目に入っていない。

ただし、芭蕉は点取俳諧も完全に悪ではないという。犯罪を犯すよりは勝負に興じていたほうがいいからだ。同じことは勉強にも言えるだろう。身にならない勉強は意味がないが、犯罪に興じるよりはマシである。

芭蕉の評価からすれば、勝負は「悪事をするよりまし」なので、導入としては大切かもしれない。もはや学ぶことに充実感を覚えていないのならば、まずは学習を勝負事にする。そうすることで初めてスタート地点に立てる人もいるからだ。

しかし、学びを競争仕立てにするのは、学ぶ入り口に立つ人を増やすための一つの方法であって、それ自体は目的ではない。勝負は誘いであって、目的地ではないのだ。

(私訳)
点取俳諧に一日中興じ、勝負ばかりして、俳諧の道を極めようともせずに、ただ俳諧の席だけ重ねるものがいる。彼らは、俳諧の道を見失ってうろたえているように見えるが、彼らのおかげで点者の妻子はお腹いっぱいご飯を食べることができ、(点取俳諧を主催した)店主の金箱はお金がもうかるだろうから、悪事をするよりはよいだろう。
(原文)
点取に昼夜を尽し、勝負を争ひ、道を見ずして走り廻る者あり。かれら風雅のうろたへ者に似申し候へども、点者の妻子腹をふくらかし、店主の金箱を賑はし候へば、ひが事せんにはまさりたるべし。

2. 遊び

遊びは、勝負より尊い。

なぜ尊いのか。その尊さの秘密は、俳諧そのものが目的になっていることにある。勝ち負けにこだわらず、俳諧そのものを楽しんでいる。点取り俳諧をやっていた人は俳諧そのものには目が向いていなかったのとは大きな違いである。

芭蕉は、遊びとしての俳諧を、子どもの読みカルタに喩える。子どもたちがカルタを楽しんでいるとき、カルタそのものが目的だ。勝つためにやっている人もいるかもしれないが、大多数は楽しいからやっている。それ以上の理由はないのである。

現代風に言えば、友達の家でやるカードゲームに近い。私は、遊戯王や、ディエルマスターズ、ポケモン、デジモン、MTG等、無数のカードゲームをして子供時代を過ごした。なぜそこまでカードゲームをしていたのか。好きだったからだ。やるのが楽しかったからだ。別に勝つためではない。まして買って褒められるためでもない。

つまり、遊びには純粋さがある。参加している人は遊びそのものを目的としており、邪念がない。遊びは楽しみのためにある。

確かに、遊びをしているときに、勝つことを意識することはある。しかし、それは、楽しみの一貫である。勝負のための俳諧とは違う。参加している全員が、勝つことを意識していると、皆が本気になり、より一層楽しくなるのである。だから、僅かな間に俳諧遊びは工夫が積み重ねられていく。

逆説的になるが、勝負としての俳諧よりも、遊びとしての俳諧のほうが上達もはやいものだ。勝負としての俳諧は中身を見ていないから、常に評価者を気にしてしまう。だから、自分の中に改善のモチベーションもなければ、改善のための工夫も、改善の方向性もない。

遊びとして改善していくのは、俳諧を愛するがゆえである。遊びのあいだに工夫していくのは、俳諧をもっと面白くするためである。その純粋なモチベーションは強い。

(私訳)
第二に、富も地位も持っている者は、賭事等は世間体をはばかり、悪口をいうのに比べたら俳諧がいいだろうと、毎日2・3回点取俳句を行うが、勝つものも誇らず、負けたものも決して怒らず、「さあもう一勝負しよう」などとまた取り掛かり、(線香が1.5cm燃える)わずかな時間であれこれ工夫をし、一巻が完成するとすぐ点をつけてもらって面白がるのは、まったく少年の読みがるたに似ている。しかし、料理を準備し、お酒も十分に用意して、貧乏な俳諧仲間を助け、点者に金をもうけさせてやることは、これもまた正しい俳諧道を打ち立てる一助となるだろうか。
(原文)
また、その身富貴にして、目に立つ慰みは世上をはばかり、人ごと言はんにはしかじと、日夜二巻・三巻点取り、勝ちたる者も誇らず、負けたる者もしひて怒らず、「いざ、ま一巻」など、また取り掛り、線香五分の間に工夫をめぐらし、こと終つて即点など興ずる事ども、ひとへに少年の読みがるたに等し。されども、料理をととのへ、酒を飽くまでにして、貧なるを助け、点者を肥えしむること、これまた道の建立の一筋なるべきか。

3. 求道

芭蕉が遊びの更に上においたのは、「求道」であった(芭蕉は求道という言葉そのものを使っていないが、ここではその精神を汲んで、こう概念化しておく)。求道は、勝負も遊びも超越する境地である。

求道とは、道を極めることである。求道を簡潔に説明するのは難しいが、物事の本質を会得することだ。芭蕉は求道としての俳諧を説明するときに、定家、西行、白楽天、杜甫といった古人をあげる。芭蕉にとって、求道としての俳諧とは、古人の精神を会得することである。

芭蕉にとっての求道を雄弁に語る名言がある。私は芭蕉の言葉の中でこの言葉が最も好きだ。ニュートンの「巨人の肩」と似たようなコンセプトだが、それよりも遥かに深淵だ。巨人の肩はあくまで「古人の跡」の集積の上がスタート地点というだけだからである。芭蕉の言葉には目指すべきゴールまで描き込まれている。

古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ(古の先人がやったことを真似るのではなく、先人が求めた道をあなたも求めなさい) by 松尾芭蕉

求道を遊びと比較すると、遊びは求道の出発点であるが、求道そのものではないことに気づく。遊びにとってはいまここで楽しいと感じられるかがすべてとなる。それは目的のない行為を可能にするという強みを持つ。

一方で、遊びには継続性がなく積み重ならないという欠点を持つ。求道には苦しいときもある。もちろん楽しいときもあるので、実際には「楽苦しい」とでもいうのが近い。

次のような事例を考える。イチローは野球を楽しんでいるのか、野球という道を極めようとしているのか。村上春樹は小説を書くのが楽しいのか、小説という世界を極めようとしているのか。宮本武蔵は剣術を楽しんでいたのか、剣術を極めようとしていたのか。

現代だと将棋の羽生さんの以下の発言が一番求道者っぽいと思う。この発言を最初に聞いたとき、正直しびれた。

記録を目指すということはあるが、やはり将棋そのものを本質的にどこまでわかっているかといわれれば、わかっていないのが実情。これから自分自身が強くなるかは分からないが、そういう気持ちをもって次に向かっていけたらいいなと思う(竜王になったあとの記者会見にて)

そうすると、どんな世界でも一流と言われている人は、ただ楽しむだけではなく、その道を極めているといえるかもしれない。そこで、求道が、勝負も遊びも超越する最終的に目指すべき姿だと仮定してみよう。

その仮定にしたがえば、ワークショップをはじめとする学習・創造を目的とした場づくりが楽しさを過剰に重視するようになっていることに、少し批判的な目がいくかもしれない。確かに、楽しさは大事である。しかし、楽しさの先になにを見据えているかも同様に大切である。

蛇足になるが、大学教員の多くが、文部科学省が主導するアクティブ・ラーニングに批判的なのは、大学は求道の場であって遊びの場ではないため、それを学生に混同させたくない、という思いがあるのではないかと思う。

(私訳)
また、自分の立てた俳諧の志に勤しんで、俳諧を心から楽しみ、むやみに他者の評価を求めず、藤原定家の骨格部分を求道し、西行の歩んだ本筋をたどっていき、白楽天が腹の底で考えていたことを突き止め、杜甫の精神を会得する者は、都会も田舎も両方みても、十の指で数えられるほどもいない。
(原文)
また、志を勤め情を慰め、あながちに他の是非をとらず、これより実の道にも入るべき器なりなど、はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸を洗ひ、杜子が方寸に入るやから、わずかに都鄙かぞへて十の指伏さず。

4. (発展)求道と探究

以上のように、芭蕉は至高の在り方として「求道」を据えた。

教育関係者なら、求道と聞いて、デューイの「探究」という概念を思い起こすかもれいない。実際、私としては、求道と探究は極めて似通った概念であると思う。ほぼ同じといってもいいかもしれない。

しかし、まだ感覚のレベルでの把握のみで、判然としてないものの、芭蕉をはじめとする日本の先達が成してきた「求道」と、偉大な教育哲学者デューイが理論化した「探究(inquiry)」は異なる概念なのではないだろうかとも思う。そして、その違いはほぼ同じとさきほどいった感覚がある一方で、埋めがたいほど大きいのではないかとも思う。

最も大きく違う点は、探究はプロセス論だが、求道はコンテンツ論であることにあると思う。

デューイが探究を概念化するとき、哲学や科学といった営みを想定していたが、両者ともに「正解」がない。哲学も科学もあくまでプロセスであって、対象ではない。哲学する・科学すると動詞にはできるが、哲学を究める・科学を究めるとはいえない。究める対象は、哲学であれば時間という概念であり、科学であれば物理世界の法則である。そう考えると、探究とは、問いを起点に、仮説検証していくという営みなのだ。探究とは動詞である。

一方で、求道には対象がある。求道のほうは、俳諧の道を極める、能の道を極める、剣の道を極めるといったように、何らかの具体的な対象があり、その対象の本質を探る営みである。求道には、対象に会得すべき本質があると仮定されており、往々にして精神を会得した古人がおり、その古人が求めていた本質を求めることになる。そう考えると、求道には会得すべき本質があるのだから最終的にたどり着くゴールがある求道には「見えない正解」があるのである。

これから、探究と求道は違うと感じる、自らの感性を信じて、その違いを古典の森に分け入って言語化していきたい。探究と求道が違うものだのだとしたら、その点に、大正自由教育運動から綿々と続く、画一的教育に批判的な教育運動が、ついには結実せず、学校現場が変わらない思想的な理由が見いだされるかもしれないと信じて。

まとめ

松尾芭蕉は、俳諧を「勝負」「遊び」「求道」に分けた。それにデューイの「探究」も加えて整理したのが次の図である。

図1;学びの在り方

一番尊いのは求道であるが、一足飛びに行くのは難しい。まずは勝負からその世界に入って、次第に遊びとして楽しむようになり、最後に求道に行ければいいかもしれない。

しかし、勝負そのもの、遊びそのものを目的としてしまったら、そのあとにもっと深淵な世界にあることに気づかない。自分が極めたい道と出会い、その道を極めていく。その生き方に、いまの社会で求められる資質能力も、幸せな人生を生きるための秘訣も隠されている気がしてならない。

参考文献


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