佐藤一斎「言志四録」金科百条(私家版)
佐藤一斎は、幕末に活躍した方々の師匠の師匠にあたります。伊藤博文や高杉晋作は吉田松陰の弟子ですが、その吉田松陰の師匠は佐久間象山です。そして佐久間象山の師匠は佐藤一斎なのです。また、私が敬愛してやまない山田方谷もまた佐藤一斎の弟子です。
そんな佐藤一斎が残したのが「言志四録」です。言志四録は、『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録』の4つを総称したものです。どれも佐藤一斎が残した警句がふんだんに残されています。
さて、言志四録といえば、西郷隆盛が愛読したことで有名です。言志四録は全部で1133条から成りますが、西郷隆盛は自分にとって重要な百条を抜き出し、金科百条として常に愛誦していました。私もこれにならい、金科百条を作成することをもって、修練としたいと思います。(厳密に数えると八十三しかないですが)
また、佐藤一斎は古人の文章を読むときは、テキストを暗記して諳んじるのではなく、自分の体験に基づいてテキストに注釈をつけることを勧めています。私もこれに習い、できる限り、テキストのあとに簡単な注記をつけました。また、翻訳も訳書を参考にしながら自分で行っています。
人生論
已むを得ずして発するもの已むを得ざるに薄(せま)りて、而る後に諸(これ)を外に発する者は花なり。【花は誰が命じるでもなく、また咲こうとして咲くのでもなく、咲かざるを得なくなるから咲くのである。】(言志録, 92)
私の師匠の1人野田智義さんは、リーダーシップはLead the Selfから始まると説いている。Leadというと能動的な感じがするがその内実は「已むを得ずして」であると私は考えている。旅は、意志するからではなく、已むを得ずして始まるのだ。ただし、旅を続けるのは意志の力であろう。
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志有る者は要は当に古今第一等の人物を以て自ら期すべし。【志を持つものにとって大切なのは、古今を通して第一級の人物になるように自らに期待することである。】(言志録, 118)
一斎先生は常に古人と肩を並べようとせよと教える。明日にも死ぬかも知れず、そうすれば古人と並べて見られるという指摘ははっとさせられるものがある。私は、ケインズやデューイ、山田方谷といった逆立ちしても適いそうにない方々を師匠と仰ぐ。それは過ちではなかったのだと勇気付けられる。
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私欲は有る可からず。 公欲は無かる可からず。 公欲無ければ、 則ち人を恕する能わず。 私欲有れば、 則ち物を仁する能わず。【私欲はあってはならない。しかし、公欲はなくてはならない。というのも、公欲がなければ他者に対する思いやりを持つことができず、私欲があれば自分を律することができないからである。】(言志録, 221)
子どもたちと接していると「何もやりたいことがない」とよく聞くが、欲が無さすぎるのも問題なのだろう。
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山水の遊ぶ可く観る可き者は、必ず是れ畳嶂(じょうしょう)、攢峰(さんぽう)、必ず是れ激流、急湍(きゅうたん)、必ず是れ深林、長谷、必ず是れ懸崖(けんがい)、絶港なり。凡そ其の紫翠(しすい)の蒙密(もうみつ)、雲烟(うんえん)の変態、遠近相取り、険易相錯(あいまじわ)りて、然る後に幽致の賞するに耐えたる有り。最も坤輿(こんよ)の文たるを見る。若しも唯だ一山有り、一水有るのみならば、則ち何の奇趣か之れ有らむ。人世(じんせい)も亦猶お是かくのごとし。 (言志後録, 26)
一斎先生は、ただ一つの山があるとか、一つの川があるだけでは、何のすぐれたところもないと語る。重なった山(畳嶂)/集まった山(攢峰)を称揚するのは単独では出せない美しさを語るためだろう。また、激流、早瀬を観るべきだというのは、ただ在るだけではなく、激しく早く動いて自然の躍動を感じるものを観るべきということだろう。深い深林や長く続く谷からは奥深さや長い歴史を感じ、切り立った崖(懸崖)、人里はなされた港(絶港)からは孤独や凜とした佇まいを感じる。また、色の混じり合う山(紫翠の蒙密)や、雲が時間とともに変わっていく(雲烟の変態)様には、複雑性や変化を感じる。以上の美しさを、「遠近相取」「険易相錯」とまとめる。遠景と近景がお互いを映し合うこと、険しさと平坦さが混じり合うことである。
ここまで語ったのちに、先生は人生と似ているではないかと問いかける。この問いの答えは書いていない。私の解釈は、この一節は後世の人が己の人生をどう振り返るか、という点に関わる。人生をもし芸術作品と捉えてみるならば、ただ一つのクライマックスがあるだけでは観るべきものがあるとはいえない。「遠近相取」とは一つの行動にも思想が宿っていることであり、思想が行動と緊密に結びついていることである。「険易相錯」とは、人生が平坦ではなく、苦労も成功も両方があることである。美しい人生を送りたいと考えている人にとって、ここまで参考になる一節はないかもしれない。
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其の篤実なるよりして之を行と謂い、其の精明なるよりして之を知と謂う。知行は一の思うの字に帰す。 (言志後録, 47)
一斎先生は「思う」が「知る」と「行う」の根本にあると考える。「行う」ことの本質は「篤実(誠実)である」ことであり、「知る」ことの本質は「物事の解像度があがる」ことである。「知行合一」は一斎先生も私淑していた王陽明が説いていた思想であるが、その簡潔にして的を得た要約である。
晦(かい)に処(お)る者は能く顕を見、顕(けん)に拠(よ)る者は晦を見ず。【暗いところにいる者は明るいところが見えるが、明るいところにいるものは暗い所が見えない。】(言志後録, 81)
訳者の川上先生は、明るいところを上司、暗いところを部下ととってリーダーシップ論として読む。部下からは上司のやっていることは丸見えだが、上司から部下の行動は中々見えないということである。ベタに教育論に読み直せば、教師 - 生徒の関係も同じことだろう。
また、明るいところは富める者、暗いところは貧する者ととって、政治論として読むこともできるだろう。というのも、貧困に陥った人にも富豪がなにをやっているかはニュースを通じて耳に入ってしまうが、逆に富豪からは貧しい人々の生活がよく見えないからである。
あるいは、明るいところを理解、暗いところを迷いととって学問論にとることもできる。なにもかもわかって順風満帆と思っているときは、迷いになりうる困難を見落としていることに気付かない。一方で、うんうんうなって迷いながら考えているときは、探究すべき道が次第に見えてくる。
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為す無くして為す有る、之を誠と謂い、為す有りて為す無き、之を敬と謂う。【為そうという意志なしに為してしまっているのが「誠」である。一方で、為したことがあまりに自然で為したように見えないのが「敬」である。】(言志後録, 100)
「誠」とは気付いたら動いていたという類のもので、「已むを得ずして発するもの已むを得ざるに薄(せま)りて、而る後に諸(これ)を外に発する者は花なり」(言志録, 92)にも通じる精神だろう。一方で、「敬」は小さいものの積み重ねで善を為そうとする精神である。
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物は一有りて二無き者を至宝と為す。[...]試こころみに思え、己れ一身も亦是れ物なり。果して二有りや否や。人自重して之を宝愛ほうあいすることを知らざるは、亦思わざるの甚だしきなり。(言志後録, 186)
至宝とは二つとないもののことだ。そして私たちはそれぞれこの世に一人しかいないかけがえのないものだ。…とここまではありがちなフレーズだが、ここからが違う。一斎先生はいう。自分を大切にしないものは考えていないのと同然である、と。健康を害するほどに仕事や学問への打ち込みすぎてはだめなのである。
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名は求む可からずと雖も、亦棄つ可からず。名を棄つれば斯に実を棄つるなり。【名誉は無理に求めてはいけないが、捨ててもいけない。名と実は同じものであるから、名誉を捨てれば、中身もなくなってしまう。】 (言志後録, 220)
毎旦(まいたん)、鶏鳴いて起き、心を澄まして黙坐すること一晌(いっしょう)、自ら夜気の存否如何を察し、然る後褥(しとね)を出でて盥嗽(かんそう)し、経書を読み、日出いでて事を視る。毎夜昏刻(こんこく)、人定に至りて、内外の事を了し、間有れば則ち古人の語録を読み、人定後に亦心を澄すまして黙坐すること一晌、自ら日間行いし所の当否如何を省みて、然る後寝に就つく。
【毎朝、鶏の声で目を覚まし、心を静かにすこし黙坐する。十分休んで生気があるかを振り返りつつ、床を出て、顔を洗い、口をそそぐ。それから古典を読み、太陽が出たら日常業務をする。夕方から夜には公私の仕事をすませ、ひまがあれば古人の語録を読み、十時ごろにまた心を澄ませてすこし黙坐する。その後、昼間やったことが正しかったかを振り返り、就寝する。】
(言志後録, 245)
一斎先生理想の一日である。
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胸次虚明なれば、感応神速なり。【心をからっぽに透明に保てば、物事へ神のごとく素早く感応できる。】(言志晩録, 5)
逆にいえば、心がいっぱいいっぱいだと、何かがあったときに動くことができない。
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暗夜に坐する者は体軀を忘れ、明昼に行く者は形影を弁ず。【暗夜に黙坐する者は自分自身に身体があることを忘れる(そのため、心に迫ることができる)。一方、明るい昼間に動く者は自分の形や影を弁別できる(ゆえに、心のことをおざなりにしがちである)。】(言志晩録, 81)
太寵(たいちょう)は是れ太辱(たいじょく)の霰(さん)にして、奇福(きふく)は是れ奇禍(きか)の餌(じ)なり。事物は大抵七八分を以て極処(きょくしょ)と為せり。【大いに寵愛を受けることは大いに恥辱にまみれる前兆である。思いも寄らない幸せは思いもよらない災いを招く。物事は大抵七八割が丁度よいのである】(言志晩録, 200)
在養(ぞんよう)の足ると足らざるとは、宜しく急遽なる時の事に於て自ら験すべし。【修養が十分なのかどうか判断するには、緊急事態が発生したときに自分自身を試してみればよい。】(言志晩録, 216)
立志の立の字は、豎立(じゅりつ)・標置(ひょうち)・不動の三義を兼ぬ。【立志の「立」の字には「まっすぐに志を立てること」「高い目標としての志を立てること」「動じない志を立てること」の3つの意味が込められている】(言志耋録, 22)
立志の工夫は、須く羞悪(しゅうお)念頭より、跟脚(こんきゃく)を起こすべし。恥ずべからざるを恥ずること勿かれ。恥ずべきを恥じざることなかれ。【立志の方法は、ぜひとも自分や他人の不善を恥じ、憎む心から出発するがよい。恥じなくてよいことを恥じてはいけない。しかし、恥じなければならないことを恥じないではいけない。】(言志耋録, 23)
今では「志」は「どういうことをやりたいか」と捉えられているが、本家本元の「志」は「どんな人間になりたいか」のことを意味していた。それゆえに、「自分の中にある恥ずべき点を自覚する」ことが立志の極意となる。
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立志は高明を要し、著力(ちゃくりょく)は切実を要し、工夫は精密を要し、期望は遠大を要す。【立志は道理に通じたものでなければならない。努力は適切でなければらない。工夫は細密で抜け漏れがあってはならない。期待は、遠く広く持たなければならない。】(言志耋録, 26)
困心衡慮(こんしんこうりょ)は、智慧を発揮し、暖飽安逸(だんぼうあんいつ)は、思慮を埋没す。【心を苦しめながら考えを巡らせることで、智慧が発揮される。一方、衣食が満ち足りていれば、思慮は埋没する。】(言志耋録, 31)
得意の物件は懼る可くして喜ぶ可からず。失意の物件は慎む可くして驚く可からず。【うまくいった事案は恐るべきで、喜ぶべきではない。一方、うまくいかなかった案件は慎むべきではあるが、驚くべきではない。】(言志耋録, 32)
事有る時、此の心の寧静なるは難に似て易く、 事無き時、此の心の活溌なるは、易きに似て難し。【有事に心を落ち着かせるのは難しそうで簡単である一方、平時心を活発にしておくのは簡単なようで難しい。】(言志耋録, 59)
言志晩録までは、有事の際に心を落ち着かせておくべきことを語るが、ここでは平時に心を活発にしておくことの難しさを語る。平時に明敏に思考するのが難しいからこそ、私を含め、凡夫は予定や仕事を詰め込みたがるのだろうが、今一度そのことを反省しなければならない。
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人は須らく快楽なるを要すべし。快楽は心に在りて事に在らず。【人間は誰でも楽しみを必要とする。ただし、楽しみは自分の心にあって、外界にあるのではない。】
私の友人に「面白がる」ことの重要性を説く者がいるが、彼と一斎先生のいっている意味は一つであろう。
立誠は柱礎(ちゅうそ)に似たり。是れ竪の工夫なり。居敬(きょけい)は棟梁に似たり。是れ横の工夫なり。【立誠は、建築で言えば柱や基礎に当たる。タテの工夫である。一方、居敬は棟や梁にあたる。ヨコの工夫である。】
人間を建物に見立てると、立誠と居敬の両方を兼ね備える必要があることを言う。一斎先生の説くところは究極のところ「誠」と「敬」であることがここから見て取れる。山田方谷が「誠」を最重要視したことにも通じる。
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志操は利刃の如く、以て物を貫くべし。肯(あ)えて迎合して人の鼻息を窺わず。【志に支えられた意志は、研ぎ澄ました刃のようで、何物も貫くことができる。世間に迎合したり、他者の反応に阿ったりしない。】
愆(とが)を免るるの道は、 謙と譲とに在り。福を干(もと)むるの道は、恵と施とに在り。【不幸を避けるには、よく謙り、よく譲ればよい。幸福を求めるためには、よく恵み、よく施せばよい。】(言志耋録, 152)
智略は心に在りて、藝能は身に在り。之を兼ぬる者は少なし。【智略は心にあって、藝能は身体にある。2つを兼ねる者は少ない。】(言志耋録, 198)
古人の是非は、之れを品評するも可なり。今人の好歹(こうたい)は、之れを妄議するは不可なり。【古人の良し悪しは品評してもよい。いま生きている人の良し悪しはみだりに議論してはならない。】(言志耋録, 204)
誠意は是れ終身の工夫なり。一息尚お存すれば一息の意有り。臨歿(りんばつ)には只だ澹然(たんぜん)として累無きを要す。即ち是れ臨歿の誠意なり。【誠意は一生涯を通しての工夫である。息が絶え絶えであってもまだ呼吸しているならば、そこに一息の意志がある。臨終のときには、ただあっさりとして、何かに執着してはならない。これが臨終のときの誠意である。】(言志耋録, 339)
仕事/応対論
己を喪えば、斯に人を喪う。人を喪えば、斯に物を喪う。【自分を見失うと、仲間を失う。仲間を失うと何もなくなってしまう。】(言志録, 120)
川上正光先生は「己を喪う」を「自信を喪う」と解釈しているが、私としては「自分を見失う」と解釈したほうがしっくりくる。別にいつも自信満々である必要はないし、迷ってもいい。ただ、自分を見失って迷走してはだめである。佐藤一斎先生が常々言っている「立志が何よりも最初に大事だ」という教えと通じるものがある。
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春風を以て人と接し、秋霜を以て自ら粛む。【春風のような柔らかな態度で人には接し、秋霜のような厳しい態度で自分は慎む】(言志後録, 51)
イメージを湧き立てられる一節である。春風は冬が終わったこともあって、横を通り過ぎただけでも元気をつけてくれ、思わず外に出たくなる。一方、秋霜からイメージするのは、しんしんとする朝、静座し、書に向かう光景だ。春風はカラーで秋霜は白黒という感じもする。
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怨に至っては、即ち当に自ら其の怨を致しし所以を怨むべし。【誰かから怨まれたときは、その誰かが自分を怨むに至った理由を怨むべきである。】(言志晩録, 150)
他者から怨まれる経験も自らの修養の糧とせよということだろう。
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人に接すること衆多なる者は、生知・熟知を一視し、事を処する錬熟なる者は、難事・易事を混看す。【多くの人に接するものは、少ししか知らない人もよく知っている人も同じように見ていく。仕事をうまく捌ける人は、難しい仕事も簡単な仕事を意識的に分けずに同じように処理する。】(言志晩録, 206)
特別な相手だからといって「特別な対応を!」と思ってみたり、難しい仕事だからといって「さあやるぞ!」と特別に気合を入れてみたりすると、かえって空回りしてしまい、うまくいかない。逆にいえば、常に大切な相手に接しているかのように人に接し、常に難しい仕事をやっていると心得て事を処することが重要なのだろう。
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鋭進の工夫は固より易からず。退歩の工夫は尤も難し。【鋭い勢いで物事を進めていって事を成すのは、もともと簡単なことではない。しかし、最も難しいのは、適切な時機に身を引くことである。】(言志晩録, 236)
転職してキャリアを積み重ねていき、仕事がますますプロジェクトベースになる現代社会において、辞め時を判断するのは過去にも増して難しくなっていく。現代において、辞め時を自信をもって判断できるなら修養も十分だといえるかもしれない。
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人は厚重を貴びて、遅重を貴ばず。真率を尚びて、軽率を尚ばず。【人間は温厚で重々しいのを大事に思うが、遅くてのろのろしているのは大事だと思わない。真面目で率直なものはよいと思うが、軽はずみなものはよいとは思わない】(言志晩録, 246)
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人、我れに就きて事を謀らば、須らく妥貼易簡(だちょういかん)にして事端(じたん)を生ぜざるを要すべし。【誰かが自分を尋ねてきて相談するときは、是非とも穏やかに簡潔に回答し、争いにならないように気をつけなければならない。】(言志晩録, 250)
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凡そ事、初起は易く、収結は難し。【何事も始めることは簡単で、成果を得て終えるのは難しい。】(言志晩録, 255)
とにかくアクションすること、始めてみることが大事、と私もよく生徒に説くが、肝心なのは始めたあとなのだ。始める前にストップをかけすぎるのはよくないが、始めたあとに甘やかしすぎるのもよくないのだろう。
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人事の叢集(そうしゅう)するは落葉の如く、之を掃はらえば復た来る。畢竟窮已無し。緊要の大事に非ざるよりは、即ち迅速に一掃して、遅疑すべからず。乃ち胸中綽(しゃく)として余暇有りと為す。【仕事が集まってくるのは落ち葉のようで、掃除しても再びやってくる。仕事に終わりはない。だから極めて大事なこと以外は、迅速に片付けて、後に残してはならない。そうすれば、心の中は晴れやかになって、余裕も出てくる。】(言志晩録, 265)
しばしば5分で済ませられる仕事は、発生したときに片づけよと言われるが、これと同じ精神だろう。難事に集中するためには心の余裕が必要だが、タスクが積み上がっていると集中するのは難しい。
事を処するには決断を要す。決断或は軽遽(けいきょ)に失す。 事を執るには謹厳を要す。謹厳或は拘泥に失す。【物事を処理するには決断が必要だが、決断は軽はずみで慌ただしくなると失敗する。物事を管理するには謹厳が必要だが、謹厳は細かいことに拘泥すると失敗する】(言志耋録, 112)
凡そ人事を区処するには、当に先ず其の結局の処を慮って、而る後に手を下すべし。楫なき舟は行ること勿れ、的なきの箭は発つこと勿れ。【仕事を処理するときは、まず終わりにどうなっているかを熟慮したあとに手を動かし始めるがいい。舵のない船にのってはいけず、的のない矢は放ってはならない。】(言志耋録, 114)
寛事を処するには捷做(しょうき)を要す。然らずんば稽緩(けいかん)に失せん。急事を処するには徐做(じょさ)を要す。然らずんば躁遽(そうきょ)に失せん。【緊急ではない要件は早く片付けてしまうがいい。そうしないと、仕事が滞ってしまう。一方、緊急の要件はゆっくり処理するがいい。そうしないと慌てて失敗してしまうだろう。】(言志耋録, 115)
旧恩の人は、疎遠すべからず。新知の人は、過狎(かこう)すべからず。【むかし恩を受けた人とは疎遠になってはいけない。新しく知ったばかりの人とは過度に親しくなってはいけない。】(言志耋録, 172)
我れに同じからざる者有り。亦与に交るべけれども、而も其の益は尠(すくな)きに匪(あら)ず。【自分とは異なる者とも交際するのはよいことで、自分のためになることが多い。】(言志耋録, 184)
政治/リーダーシップ論
賞罰は世と軽重す。然るに其の分数、大略十中の七は賞にして、十中の三は罰して可なり。(言志録, 22)
昨今は褒めること(賞)の重要性ばかりが語られるが、戒めること(罰)も必要である。逆に、罰を語っているときは賞を忘れがちである。賞:罰が7:3を方針とすれば、両方忘れることなく、罰しすぎを防ぐこともできる。陰陽説を下敷きにした東洋思想のバランス感覚は、リーダーたるもの腹の一番下にこしらえておかなければならないものだ。
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社稷の臣の執る所二あり。曰く鎮定。曰く応機。【大臣の職務には2つの種類がある。第一は「鎮定」で、国内外を鎮め、穏やかな生活を人民に保障することを意味する。第二は、「応機」で、応機とは危機にあたって臨機応変に対応することである。】(言志録, 52)
平時には鎮定、危機には応機をもって対処することがリーダーにとって肝要である。つまり、平時に安定感があるが危機に弱い、平時に動きすぎてかき乱すが危機には強いといったどちらでもなく、その中道を理想のリーダー像とするところである。昨今では危機が少ないので、鎮定のリーダーが多く、応機の人は少なくなっているかもしれない。
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人をして懽欣鼓舞(かんきんこぶ)の意を整粛収斂(せいしゅくしゅうれん)の中に寓せしむる者は礼楽合一の妙なり。(言志録, 72)
ただ、楽しいだけではだらけてしまう(楽だけではいけない)。一方、ずっと気を引き締めてはもたない(礼だけではいけない)。人間には、礼と楽が解け合った社会を目指すべきである(礼楽合一)。政治の本質をついた言葉であり、政治家のみならず組織を率いるリーダー全てにとって参考になる言葉であろう。
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人君当に士人をして常に射騎刀(さくしゃきとうさく)の義に遊ばしむべし。.[.....] 是れ但だ治に乱を忘れざるのみならず、而も又政理に於て補い有り。(言志録, 76)
平和のときも武芸を忘れてはならないと戒めるもの。常に危機を想定して準備しておくことはリーダーの責務である。太平の世が続くことが理想ではあるが、なにもしなくてもそれが続くとは思ってはいけない。
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吾れ古今の人主を観るに、志の文治(ぶんじ)に存する者は必ず業を創(はじ)め、武備を忘れざる者は能く成るを守る。【古今のリーダーを観ると、”文”を重視する人は、ゼロからイチをつくる人である。一方、”武”を忘れない人は、イチをジュウにする人である。】(言志録, 173)
つまり、イノベーターになりたいなら、”文”を大事にしろ、ということである。言葉を大事にしないと、新しいものは生み出せない。
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凡そ大硬事(だいこうじ)に遭わねば、急心もて剖結(ぼうけつ)するを消(もち)いざれ。須らく姑(しばら)く之を舎(お)くべし。一夜をし枕上(ちんじょう)に於て粗(ほぼ)商量すること一半にして思を齎(もら)して寝ね、翌旦の精明なる時に及んで続きて之を思惟すれば則ち必ず恍然として一条路を見、就即義理自然に湊泊せん。(言志後録, 64)
リーダの責務のうち1つは緊急事態への対応であったが、その具体的な秘訣が述べられている。曰く、すぐ解決しようとするな、といのことである。具体的には緊急事態がおきてすぐは枕元で考えるくらいで一晩寝るくらいのほうがいい。翌朝頭が冴えたときに考えればいい策が浮かぶから、とのこと。この教えは実行することが特に難しいものの一つである。緊急事態が起きてもすぐ解決しようとせず、まず家に帰って寝ようとするなど、相当な胆力がないとできない。とりあえず行動したくなってしまうだろう。ただし、知行合一の根本が「思う」にあるならば、小手先の行動には意味がない、というのは道理である。
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事已むことを得ざるに動かば、動くとも亦悔い无なからん。[...]若し其れ容易に紛更(ふんこう)して、快を一時に取らば、外面美なるが如しと雖も、後必ず臍(ほぞ)を噛まむ。
普段はじっとしていても、危機が訪れて、事情がやむをえない場合に立ち至ってはじめて動くのであれば、公開はしない。逆に、時機がきていないのに外見だけ整えて改革をしても、あとで必ず公開する。タイミングを逸さないことの大切さを力強く訴える一節。
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人主の学は、智仁勇の三字に在り。【リーダーたるものが学ばないといけないのは、智・仁・勇の三要素である。】(言志後録, 198)
智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は恐れない。
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先賢には輔天浴日(ほてんよくじつ)の大事業有り。其の自ら視ること漠然として、軽靄(けいあい)、浮雲(ふうん)の如く然り。吾れ古に其の人有るを聞けり。今は則ち夢寐(むび)のみ。(言志後録, 254)
昔の賢人には、国家のために大功があった。それを自らは大事業とは思わず、軽くもやがかかって、雲が浮いているかのようだった。昔はこんな人がいると聞いているが、今は夢でないと見られない。
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彼を知り己を知れば、百戦百勝す。彼を知るは、難きに似て易く、己を知るは、易きに似て難し。【敵を知り、己を知れば百戦百勝だ。ところで、敵を知るのは難しそうにみえて簡単だ。むしろ、己を知るほうが簡単なようで難しい。】(言志晩録, 103)
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人主は宜しく敵国外患を以て薬石となし、法家払士を以て良医となすべし。【君主は、敵国が攻めてきたことをもって薬とし、法律や官僚をもって医者となすべきである。】(言志晩録, 120)
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創業の中に守成有り、守成の中に創業あり。唯だ能く守成す、是を以て創業す。唯だ能く創業す、是を以て守成す。【新しく物事を始めることの中には、これまでのものを守って引き継いでいくものがある。一方、何かを継承することの中には、新しく始める要素がある】(言志晩録, 128)
イノベーションを起こすためには、完全にすべてを破壊し、まっさらにするのではなく、これまでの社会制度や価値観を引き継いでいく要素がなければならない。一方、いまあるものを守っていこうと思えば、全てを変更せずに済まそうとするのではなく、状況に合わせて変えていかなければならない。このように保守と革新は相異なるのではなく、相補的なものである。思うに秘訣は本質を見抜いてそれ以外を削ぎ落とすことである。
人主は宜しく大体を統ぶべく、宰臣は宜しく国法を執るべし。文臣は教化を敷き、武臣は厲(はげ)まし、其の余小大の有司、各々其の職掌を守り、合して以て一体と為らば、則ち国治むるに足らじ。【君主は根本を治めていればよく、大臣は法律を執行するべきだ。文官は国民を教化し、武官は国民を励まし、その他いろいろな役人が自分の職掌を守って一体となれば国はひとりでに治まる】(言志耋録, 253)
人主は最も明威を要す。徳威惟れ威なれば則ち威なるも猛ならず。徳明惟れ明なれば則ち明なるも察ならず。【君主に最も必要なのは「明威」だ。第一は「徳威」であり、これは威厳はあるが、猛々しくはないことをいう。第二は、「徳明」であり、これは明快であるが、細々してはいないことをいう。】(言志耋録, 254)
訟(しょう)を聴くには明白を要し、又不明白を要す。明白を要するは難きに似て卻って易く、不明白を要するは、易きに似て卻って難し。之れを総(す)ぶるに仁智兼ね至るを以て、最緊要と為なす。 【訴訟を聴くときは、明白かつ曖昧にしておかなくてはならない。明白にするのは難しく見えるが簡単であり、曖昧にするのは簡単なようで難しい。両方を兼ね備えるには、智と仁の両方を兼ね備えることが最も重要だ。】(言志耋録, 269)
凡そ大都を治める者は、宜しく其の土俗人気を知るを以て先と為すべし。之れが民たる者は、必ず新尹(しんいん)の好悪を覗う。人をして覗わざらしめんと欲すれば、則ち倍(ますます)之れを覗う。故に当に人をして早く其の好悪を知らしむべし。【大都市を治める者は、土地の風俗や住民の気質をまず知るべきだ。民は必ず新しい長官の良し悪しを気にするものである。長官が住民に知られないようにすれば、ますます住民は知りたがるだろう。それゆえ、住民に自分の良し悪しを知らせるべきである】(言志耋録, 266)
学問論
憤の一字は、是れ進学の機関なり。舜何人ぞや、矛(われ)何人ぞやとは、方に是れ憤なり。(言志録, 5)
学問を始める最初のきっかけは「発憤」である。デューイは行為の目的の最初に「衝動」があるとみていましたが、これと同じ精神であると考えられます。佐藤一斎先生は「発憤」の例として「古の聖人である舜も自分と同じ人間ではないか」という言葉を挙げている。つまり自分を古人と同格に引き上げることが発憤の入り口である。それゆえ、もし生徒に学問をさせたいと思うのであれば、まず最初にするべきなのは立派な人間と出会う機会づくりであり、なおかつ立派な人間に気後れしないように指導することなのだろう。
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昨の非を悔ゆる者は之れ有り。今の過ちを改むる者は鮮(すく)なし。【過去の誤りに目を向ける人はいるものの、今の過ちを直視できる人は少ない。】(言志録, 43)。
誤りを振り返って糧とすることは学問の基本である。今の自分を直視することはしんどいが、そこから逃げてはならない。学習を促すはずのリフレクションも過去にばかり目を向ければかえって毒になる。
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経を読む時に方(あた)りては、須らく我が遭う所の人情事変を把りて注脚と做すべし。事を処する時に臨みては則ち須らく倒(さかしま)に聖賢の言語を把りて注脚と做すべし。事理融会して、学問は日用を離れざる意志を見得するに庶(ちか)からん。【古典を読むときは自分の経験を注釈とすべきだ。逆に、問題を解決するときは、古の聖人・賢人の言葉を活用するべきである。こうすることで、実例と理屈が融け合い、日常生活に活きてくる。】(言志録, 140)
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終年(しゅうねん)都城内に奔走すれば、自ら天地の大たるを知らず。時に川海に泛(うか)ぶ可く、時に邱壑(きゅうがく)に登る可く、時に蒼奔(そうぼう)の野に行く可し。此れも亦心学なり。(言志後録, 66)
都会にずっといては、天地が大きいことがわからないため、学問を極めることはできない、という戒めの一節。旅することの重要性を教えてくれる。後段(言志後録, 73)で「聖人の遊覧は学問でないものはない」と言い切るのだが、それと同じで旅に出て学ぶことが必要だ。旅に出ないのはもってのほか、ただ旅に出るだけでもだめなのである。
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学者にて書を読むを嗜まざる者有れば、之を督して精を励まし書を読ましめ、大に書を読むに耽る者有れば、之に教えて静坐して自省せしむ。(言志後録, 83)
学問の基本は読書と静座である。読書しない者には読書をさせるが、読書をしすぎているものには静座をさせると説く。私見だが、読書は他者と向き合うことであり、静座は自分と向き合うことでもあるだろう。こうして考えてみると、現代の教育には読書は残ったが、静座はなくなってしまったかもしれない。読書だけしていると、一斎先生が度々言及する、物知りだが行動はしない賢しらな人間が増えていく。
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「学んで優なれば、則ち仕うる」は、做し易し。「仕えて優なれば則ち学ぶ」は、做し難し。【よく学んでから官職につくのは簡単だ。一方、よく働いてから学ぶことは難しい。】(言志後録, 218)
つまり、まずはよく学べ、というメッセージだろう。
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書は妄(みだり)に読む可からず、必ず択び且つ熟する所有りて可なり。只だ要は終身受用せば足る。【書物はむやみに読んではならない。必ずよく選び、熟読するのがよい。肝要な点は、書物の内容を一生涯、人生に活かし続けることである。】(言志後録, 239)
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一疑起る毎に、見解少しく変ず。即ち学の利進むを覚えぬ。【疑問があれば、考え方が変わる。考え方が変わることが学問が進む。】(言志晩録, 59)
学問をドライブするのは疑問である。何事も疑問を持ちつつ吸収しなければ考えが変わる強度にならないということだろう。
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今の学者は、隘(あい)に失わずして博に失い、陋(ろう)に失わずして通に失う。【学問が狭いために失敗するのではなく、博いために失敗する。また、偏っているから失敗するのではなく、全てに通じているから失敗する。】(言志晩録, 62)
すなわち、学問を志すものはスタンスを取ることから逃げてはならない。それゆえに、学問の大成には己の心と向き合うことが不可欠なのだろう。無機的に知識を詰め込んで知っていることが増えても学問はできない。
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大に従うものは大人と為り、小に従うものは小人と為る。(言志晩録, 66)
学問を行うものは、細かいことを探究しないように探究するかをよく考えないといけない。大きなものを探究すれば、立派な人物になれる。
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経を読む時は、寧静端坐(ねんせいたんざ)し、巻を披(ひら)きて目を渉(しょう)し、一事一理、必ず之を心に求むるに、乃ち能く之を黙契(もっけい)し、恍として自得する有り。【書物を読むときは、静かに腰を下ろし、書物に目を通し、一つひとつの事柄の本質を探求していくと、無言のうちに自分の心と書物が交わり、ふと本質を得心することができる】(言志晩録, 74)
書物に向き合う環境が大事であるという戒めである。通勤電車に揺られてビジネス書を読むことも大事だが、本当に重要な書物は心静かに落ち着いて一行ずつ丹念に追っていかなければ腑に落ちてこない。逆に、そういう書物の読み方をしたことがない人は、何万冊読んでいても虚しい。
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治心の法は、須らく至静を至動の中に認得すべし。【自分の心を治めるためには、動き回っている忙しなさの中に、静かで落ち着いた心を見出すべきである。】(言志晩録, 85)
心を治めようとして俗世と関わりを断ち、環境から静かにしていては、かえって修養にならないことを戒めたもの。逆に忙しない日常でも静かで落ち着いた心でいられてこそ、真に学問を修められているといえる。
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事を人に問うには、虚懐(きょかい)なるを要し、毫(ごう)も挟(さしはさ)む所有るべからず。【誰かに質問するときは虚心坦懐でなければならず、少しも答えを受け入れるのに邪魔になるような邪念はあってはならない。】(言志晩録, 168)
質問の要諦は、答えを受け入れることができるように、心を空っぽにしておくことである。詰問して困らせてやろうとか、自分の仮説があっているか確かめてやろうとか、余計なことを考えてはいけない。逆にいえば、心を空っぽにしなければ受容できないような答えを引き出す質問がよい質問なのだろうとも考えられる。
慎独の工夫は、当(まさ)に身の稠人広坐(ちゅうじんこうざ)の中に有るが如きと一般なるべく、応酬の工夫は、当に間居独処の時の如きと一般なるべし。【慎独のためには、常に自分が人混みの中にいるかのように行動するべきである。また、他者とコミュニケーションするときは、独りでいるときと同じように処するがよい。】(言志晩録, 172)
心理学では良くも悪くも人は他者からの影響を受けやすいことが示されてきたが、一斎先生は、独りのときは他者といるように、他者とともにあるときは独りでいるようにと説く。つまり、独りのときと他者とともに在るときで振る舞いを変えてはならない。これは簡単なようで非常に難しい。
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世人の過越なるものは必ず過愆なる。[...] 故に人事は寧ろ及ばざるとも過ぐること勿れ。【やり過ぎると必ず誤りが生じる。[...] それゆえ、たとえ及ばないところがあってもいいが、やり過ぎにならないようにせよ。】(言志晩録, 181)
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過去は乃ち将来の路頭たる。【過去とは未来の出発点である。】(言志晩録, 193)
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当に足るを知るべし。但だ講学は則ち当に足らざるを知るべし。【足るを知るべきである。ただ、学問だけは足らざるを知るべきである。】(言志晩録, 202)
足るを知るという原理の中で、学問だけが例外だと論じた箇所。ゆえに、世の中が物質的に充実するにともなって、学問の機会だけはより一層充実させなければならない。
学は一なり。而れども等に三有り。初には文を学び、次には行を学び、終には心を学ぶ。【学問の道が一つであるが、順序には三つある。まず最初は先達の文章から学ぶ。次は、先達の行動から学ぶ。最後にはその精神が分かってくる。】(言志耋録, 1)
四書の編次には自然の妙有り。大学は春の如く、次第に発生す。論語は夏の如く、万物繁茂す。孟子は秋の如く、実功外に著(あら)わる。中庸は冬の如く、生気内に蓄えらる。【四書の編纂には、自然の妙味がある。『大学』は春のようで、理路整然と物事の起こりを示す。論語は夏のようで、草木が生い茂るかのように、様々な問題への回答が与えられる。孟子は実りの秋のようで、実際の功績を示す。中庸は冬のようで、充実した精神を内側に蓄えている。】(言志耋録, 9)
自分でテキストを書くときにも参考になる順序である。まずは春のように理路整然と道理を説く。次に夏のように問答形式で実際上の疑問を解決する。その後、秋のように現実に応用したときの効用を具体例とともに述べる。最後に、冬のように全体の背景にある哲学的・思想的な背骨を開陳する。
学生の経を治むるには、宜しく先ず経に熟して、而る後に諸を註に求むべし。今は皆註に熟して経に熟せず。是を以て深意を得ず。【経典を習得するには、まず本文に習熟したあとに、注記を探究するがよい。今は誰もが注記に熟知するが、本文を習熟しない。だから、深い意味が分からない。】(言志耋録, 276)
教育論
聡明叡知にして、能く其の性を尽くす者は君師なり。君の誥命(こうめい)は即ち師の教訓にして、二つ無きなり。世の下るに迨(およ)びて、君師判る。師道の立つは、君道の衰えたるなり。(言志録, 177)
よいリーダーはよい教師でもある。よいリーダーの指示は教育的含意を持ている。よいリーダーがいなくなることで、教えることが独立し、リーダーと教師が分かれる。Project Based Learning(PBL)や探究学習といった教育方法を深めれば深めるほど、よいリーダーとよい教師を再び合一させることが重要であると感じる。
能く子弟を教育するは、一家の私事に非ず。是れ君に事(つか)うるの公事なり。君に事うるの公事にあらず、是れ天に事うるの公事なり。(言志録, 233)
自分の子どもを教育するのは、公のためであり、天のためである。家庭教育が重要だという意味でもあるが、現代風に取れば、ローカルで行われる教育的営みがそのままグローバルな営みであるとも捉えられる。自分の家庭のためだけの教育を戒めるならば、それはそのまま自分の地域だけのための教育や、自分の国のためだけの教育も戒められるだろう。
草木の萌芽は、必ず移植して之を培養すれば、乃ち能く暢茂(ちょうも)条達(じょうたつ)す。子弟の業に於けるも亦然り。必ず之をして師に他邦に就きて其の橐籥(たくやく)に資せしめ、然る後に成る有り。膝下(しっか)に碌碌(ろくろく)し、郷曲に区区たらば、豈に暢茂条達の望有らんや。(言志後録, 146)
子どもの教育においては旅にだし、師につかせることが重要だと説く。一斎先生は、「実家でのうのうと暮らし(膝下碌碌)」「故郷で毎日ばらばらなこことをしている(郷曲区区)」では成長しないと厳しい。私は留学を大切だと思うが、それはこの精神ゆえである。まずは家庭や故郷を離れることが重要である。その意味では、海外留学でなくても、地域留学でももちろんよい。小さい子であれば、サマーキャンプに出すことも重要だろう。とにかく、安心安全な家庭を離れる経験を積ませることが精神の自立のためには大事だ。
才有りて量無ければ、物を容るる能わず。 量ありて才無ければ、亦事を済さず。 両者兼ねる事を得可からずんば、寧ろ才を棄てて量を取らん。【才能があっても度量がなければ、人を包容できない。一方、度量があっても才能がなければ事を成すことができない。両者を兼ね備えることができないとしたら、才能を捨てて度量を取る。】(言志晩録, 125)
教えに三等有り。心教は化なり。躬教(きゅうきょう)は迹(せき)なり。言教は則ち言に資す。【教育には三つの段階がある。第一の「心教」は、師匠が弟子を自然と感化する方法である。第二の「躬教」は、師匠が模範を示し、弟子は師匠の跡を追う教え方である。第三の「言教」は、言葉を用いて師匠が弟子を説き諭す方法である。】(言志耋録, 2)
人を訓戒する時、語は簡明なるを要し、切当(せっとう)なるを要す。疾言(しつげん)すること勿れ。詈辱(りじょく)すること勿れ。【訓戒を与えるときは明瞭な言葉で、目的に適った言葉選びをする必要がある。早口でまくし立ててはいけない。罵り、辱めてはいけない。】(言志耋録, 160)
事理を説くは、固より人をして了解せしめんと欲すればなり。故に我れは宜しく先ず之を略説し、渠(か)れをして思うて之を得しむべし。然らずして、我れ之を詳悉(しょうしつ)するに過ぎなば、則ち渠れ思を致さず。卻って深意を得ざらん。【本来、物事の道理を説明するのは、相手に道理を納得してほしいからである。それゆえ、私はまず簡単に解説してから、相手に考えさせて納得させる。そうせずにもし詳細に説明しすぎてしまうと、相手は考えなくなり、かえって深い意味を会得できないだろう。】(言志耋録, 166)
教えて之れを化するは、化及び難きなり。化して之れを教うるは、教え入り易きなり。【教えることで生徒を変えようとしても、変わらない。まずは自然と生徒を感化させてから教えば、教えがするすると生徒に吸収される。】(言志耋録, 277)
ここでは「化」の文字が重要だろう。ここは儒教で重視する「教化」の意味と取ればいいだろう。教えることは、行動で教えるにしても、言葉で教えるにしても、教師から生徒へ何かしらの働きかけがある。一方で、教科はそのような能動性がない。能動性がないままに自然と生徒が変わることが教化なのである。それゆえ、「化して之れを教うる」はまず生徒が自然と変わるまで自分の人格を磨け、という教育者への叱咤激励となる。教えの技術を身につけるのはそのあとでよい。
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