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まのいいりょうしのできるまで #7

前回からのつづき。。。

「定住し、労働する」

周南市での定住生活は、絵にかいたような幸せぶりであった。それもそのはず、私たちは新婚であったし、子供も生まれたばかりであったのだ。少々お金がないことくらい、なんてことはなかった。音楽で生計を立てていくと気張っていた僕は、予定通り新しい作品を作り、リリースした(風博士6thアルバム『声とギター』2012年9月発売)。

不案内から始まった周南での生活も、縁に恵まれて、友人もできた。周南市を拠点に、新しい作品をもって全国ツアーもした。すべては順風満帆に思えた。

しかしながらそんな日々も長くは続かなかった。あまりの収入のバラツキに、「音楽だけでやっていく」という生活スタイルが崩れ始めたのだった。折しも妻は二人目を懐妊していた。もう音楽だけにしがみついている場合ではなかった。それなりに長い逡巡の末、僕は、働きに出ることに決め、働くといえば肉体労働だろうと、工場勤めに出ることにした。

よくよく考えれば、実質、社会人一年目である。僕はすでに39才であった。それまでの経験といえば、自分たちで起業したIT会社の経営と放浪のギターマンだけである。現場のゲの字も知らなければ、ほとんど工具も手に持ったことのない、39才のおっさんであった。

だから開き直って、なんでも楽しんでやろう、そういう心意気で工場に赴いた。知らないことは知らないと正直に教えを乞おう、懸命にやろう、そう決めた。結果、工場での労働は、まったくもって刺激的な日々であった。現場を体験し、工具を知った。今まで出会うことのなかったタイプの友人ができた。学び多き日々だった。

それと同時に、これは次へのステップだ、という想いを常に胸の奥に抱えていた。そして、三男が産まれて一年が過ぎたころ、工場勤めはもう三年となり、三年一区切りの言葉そのまま、その想いにのって、工場を辞めて鳥取は岩美町に引っ越すこととなった。

つづく。。。


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