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ブルース

皆、嫌う、荒野を行く。
ブルースに殺されちゃうんだ。
流行りもねぇ、もう…。
中村一義「犬と猫」

東京ブルースというビールがある。私は飲んだことはないが、前のバイト先でよくはけていた酒だ。

ひとえに、ビールとはブルースであると思う。

東京に来るまで、というか高校を出るまでの十数年間、街の構造が不思議でならなかった。どうしてこんなにも居酒屋が多いのか、なぜ駅前には必ずパチンコ屋があるのか、当時少年であった自分には関係のない施設で街が形作られているという事実は、なんだか街から弾き出されてたような、排斥されたような気分になったものだ。全部トイザらスでいいのに、と常々思っていた。

しかしながら大学生になり、酒を覚え、タバコを持ち歩き、友達がパチンコで負けた話でゲラゲラ笑うようになると少しずつ街が自分に馴染んでいくような、はたまた自分が街のパーツとして吸収されていくような気分になってくる。

外食や買い物を宝石のように扱っていた頃の自分にはわからなかったが、街にある大半の店はどこかしら鎮痛剤のような働きをなしている。

労働、そして自生活というものは黒く大きな鉛でできた潜水艦のようなもので、われわれの目の前に大きく横たわっている。それの感じ方、扱い方は人それぞれであるが、この国の経済を考えれば誰にとってもそれは決して軽いものではないだろう。

そこで、ブルースだ。ブルースは元々黒人奴隷の労働歌が発展した音楽である。ブルースに哀愁の意が込められるのは、自らが置かれた場所から真逆、あるいは上方向へと伸びようとする音楽であるからである。そこに喜怒哀楽が込められ、ジャズやロックに繋がっていった。

我々はロバート・ジョンソンやレッドベリーが歌い、レコードによってそれらが記録されていた時から数えておよそ100年後に居てもなお、ブルースとして居酒屋で飲み放題をオーダーし、二次会でカラオケに行き、クラブに入り浸り、パチンコを睨みながら、また働いていく。働き、疲れ、ブルースに浸る。おおきな、おおきなものに動かされ、足取りが確かではない夜もある。

バイト終わりにラーメン屋で頼む瓶ビールにはブルースが潜んでいる。一つ一つの泡が古びたレコードのノイズのように弾けて響き、音楽を奏でる。
「昔懐かしのシカゴに帰ろう」
ビールとは現代日本のブルースである

そうしたブルースに愛しみを覚えると同時に、そこに埋没していくことへの恐怖感もある。直線状に伸びていくと思っていた日常の首尾がいつしか連結し、長い輪の中をさまよい、そしてそれは時間というより腐敗に近いものを帯びて立体化し、螺旋状になっていく。

「ブルースに殺されちゃう」ことに対してはまっぴらごめんだ。いつもありがとう、いつか忘れてしまおう。遠くの街で、また新しいビールを飲み、飽きたらでかけてしまおう。

果たして私は、滅びずにいられるのかな。

池袋にて



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