*写真はイメージです
1.
”写真はイメージです”というフレーズは日常でよく目にする。しかし、よくよくと考えればここまでゲシュタルト的なニュアンスを持つ言葉もそう多くはない。無意識のまま読めば自然に意味が判るが、一度注意して読むとたちまち何を言っているのか了解が難しい。
注意を向けて読んでしまうと我々は先ず一種のトートロジー的な感覚に陥る。”写真”と”イメージ”は同じではないかと錯覚する。
数秒経てばこの考えにはずれがあると分かるだろう。ここで書かれた"写真"の指す概念空間と"イメージ"の指す概念空間は違っていることに気づくはずである。しかし、疑問は残る。
何故、我々は無意識下で「写真はイメージです」から「この写真は仮想的、理想的なものであり現実を写実している訳ではありません(よって、現実商品と画像には差異が存在します、文句を言わないで下さい)」という意味を引き出せるのだろうか?
2.
英語では、この種のフレーズはこう表記される。
Image is for illustration purposes only.
この概念は以下の図のようになるだろう。
これを念頭に置いて再び問題の句、「写真はイメージです」を確認しよう。英語の概念に立って要旨を掴めるだろうか?
掴めない。「は」という助詞に「for」で与えられたような方向の意味を与えることには無理があるように思える。
では、この「は」の役割は何だろう。ここを抑えることがこの疑問に向き合う上で大切だ。
3.
三上章『現代語法序説ーシンタクスの試みー』に著名な説である「主語廃止論」がある。
主格が特別な働きをするのは、ヨーロッパ諸国の言語という。
では、日本語ではどうかというと、主格に何らそのような働きは見入られない。
三上は、「~は」に主題を提示するという重要な性格があることを指摘した。
更に、このことを参照しながら藤井貞和は『文法的詩学』において、「は」の意義として「差異をさしこむ」ことを言及する。これを踏まえ「写真はイメージです」の概念を図にしてみよう。
「写真は」の「は」が、「写真」という概念を提示する。しかし、「写真」とは言っても様々な写真があるだろう。「イメージです」が与えられると、「は」は写真という概念の中のイメージ的な要素を差異化する。このような描像で我々は当初の疑問に帰ることができた。
我々が「写真はイメージです」という意を掴めるのは「は」が「現実的な写真」(及びその他の~的な写真)と「イメージ的(illustration)な写真」を差異化するから。
と、説明できる。
4.
鈴木大拙は、芭蕉とイギリスの詩人テニスンを引いて東洋と西洋の違いについて説明した。
芭蕉は自分の視線をなずなの位置にまで下げる。その中で、自らの内なる自然がおのずと、なずなの自然への心を通わせる。その一瞬のひらめきを詠む。そこに、東洋的な自然との接し方の本質を大拙は見出す。テニスンはどうだろうか、大拙はこう説明する。
「主人公は、塀の割れ目から顔を出した花に興味を抱く。無造作にそれを摘み取って、根、花、芽などをつぶさに観察する。もちろん、その花はすぐに萎れてしまい、元の輝きは消えてしまう。つまりそのような、分析的、科学的、客観的な自然への応対を西洋的なものと特徴付ける。」
続き、大拙は禅の精神、東洋的なものの見方を述べる。
「禅の方法とは直接、対象それ自体の中に入り込み、言うならば物事の内側からそれを見ることにある。」
我々が辿った考察と先に引いた大拙の説明には重なるところが多いことはすぐに確認できると思う。我々は身近なフレーズから言語の性質の違い、更にそのことから示される世界認識の違いを確認する一端を得ることができた。
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