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真を写す

写真を撮るのが好きだ。

とくに、なんてことない、どうでもいい、ふだんは気にもとめない、日常とよばれるものの片隅でじっと息を殺していたり、あるいは目の前にいつだってあるのに、その存在を無視されているものを撮るのが好きだ。

それらはたとえば、標識だったり、電柱だったり、ポストだったり、空だったり、木の枝だったりする。

写真を撮ると、いつだって私はただしくないのだと知る。

いろいろなものを撮るとわかるのだけれど、目で見たままのものを、目で見たままに写真に残せることはまずない。レンズをとおして写し出されたものの色味。明度。フォーカス。角度。

さまざまな要因が絡みあって、写真となったものは、目で見たものと、なにもかもが違う。

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そうしてありふれたものを撮ったとき、それがありふれたものであるほど、そこにあるかすかな唯一性、標識の折れ曲がった角度、ボルトの突き出た長さ、浮き出たサビの色あいなんかが、にわかに主張しだして、なんで私は日常をすごしているとき、カメラを構えようとしないとき、これを無視できていたんだろう、という気持ちになる。

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ふだん見ているものが、ふだん見ているはずのものが決定的にゆらいで、まったくべつの、ただしい“もの”としての存在が立ち上がってくる。

私がなにかを見て、それについて語るとき、文字にするとき、または絵を描くでも、歌を作るでもいいけれど、それはいつだって、私の目をとおして得た情報を、私がもともと持っている回路をとおして出力したものになる。

写真という媒体がほかの表現とまったく違うところは、私の目をとおして得た情報を、私以外の回路をとおして出力するところだ。

写真の技術というのは、そのあいだにある齟齬を埋めていくことにあるのだけれど、私は私の未熟な写真がもたらす、目で見たものと写し出されたもののあいだにある乖離から、“もの”としてのあたらしいかたちを、私の見えていない「真」を、それがつきつけてくれるのを、いつだって期待している。

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