猟奇的なまなざしについて

猟奇的なまなざし。それは晴れた青い空であり、夏の冷えたビールであり、浮浪者の缶拾いであり、ガールフレンドの靴下だ。

それは本能的なまなざしとも言えるかもしれない。きみがそう呼びたければそう呼んでも構わない、と思う。猟奇的なまなざしとはただ僕が、内向的な僕が、個人的にそう呼称しているだけだし、それはアモルフな存在だから。根源的な存在であるとも言えるだろう。


僕は誰かのその猟奇的なまなざしに含まれていると感じる。一方的でエゴイスチックなまなざし。僕は誰かのそれに含まれている。誰かの全体性の中にいる。逃れようと思っても逃れられない。僕はそれに怯えることしかできない。


同時に僕は誰かを猟奇的なまなざしで見つめている。無意識的にも有識的にも、気付けば僕は誰かを、一方的にエゴイスチックに見つめている。ふと僕は誰かをそのまなざしで見つめていることに気付いたりもする。そしてそのまなざしを中断しようともする。でも、もうそのまなざしを無かったことにはできない、残念だけれど。その誰かの傷つきやすく無防備な顔を僕は全体性の中に含んでしまったから。


猟奇的なまなざしで僕たちは繋がっている。南米のエキゾチックな娼婦、神に祈るキリスト教徒、試験を受けるあの子、物乞いをする乞食、死を目前にした老人…。地球上のどこにいても僕たちはそのまなざしで繋がっている、含んでいる、含まれている。好むと好まざるとにかかわらず。


僕はやかんで湯を沸かしインスタントコーヒーを飲んだ。フェアトレードコーヒーを買う余裕のない僕は、このコーヒーをとてもうまいと思った。


文明。

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