私と倫理観と夏の話

生きている価値なんてない生命を生きていく。価値がないと気付けない人のことを私は可哀想だと思う。価値があるわけがない。でも、だからこそ生きなきゃいけないし、考えなくてはならない。

ハイライトを吸っている時に思い出すことはいつも同じだ。大切なことだから、ここには書いてはいけない。でも、私はいつもそのことを思い出す。そしてこれから先も、そのことをずっと思い続けるのだと思う。

私は何かに縋りたかった。でも同時に、縋ることでは自分は満たされない、ということもわかっていた。有神論者のほうが幸福であることを世界中の誰もが知っている。小さな共同体や封建制度に縛られたほうが結果的に幸福なのかもしれない。でも、私たちは常に外の世界を覗こうとしている。私たちが外に出ることなんて、本当はできないのに。二進法のきみは、本当に実在しているんだろうか?

高校3年間の夏は、どの夏も違っていた。いろんな人に出会って、いろんな価値観に触れた。田舎の山奥の高校に通う私にも、何かしらの形で高校生の夏という真実が存在していた。でも溶けていく夏の思い出を、あの人の体温を、私はこのまま手放していくんだと思う。これはきっと正しいことだ。

ラブホで練炭をたいて死んだあの子も、ラリったまま死んだあの子も、キズキくんも山田かまちも、死ぬ以前はあんなに美しくて、死んでしまった今もずっと美しい。透き通るような眼差しやキラキラと光る何かが彼らにはあって、私にはそれがなかった。若くして死んだ彼らの瞳が、今も惰性で生きる私たちのそれとは相容れないということを、一体どれくらいの人が理解しているのだろうか?


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