飽きたと言わずに、もう一回
小さい頃から、「もう一回」が好きだ。
姉と兄がいるのだが、3人の中でも格段に「もう一回」のおねだりが多かったらしい。
同じ本を何度でも読んでもらい、「高い高い」は父の腕が千切れるまで繰り返した。手がふやけるまで手を洗い、ひたすら同じ絵を描き続けたりもあった。
ずっと続けこともあるし、少し間が空いてから思い出したようにやることもあるけど、他人から見て「ずっと同じことをしている」と思われていたに違いない。
ただ、私にとっては違う。
やっていることは同じでも全く同じではない。
同じ絵本を読んでもらっても、毎回同じ抑揚で同じテンポで寸分狂わずテープレコーダーのように読まれるわけではない。
高い高いだって、滞空時間や父の腕の震え、「もう一回」とおねだりした時の反応などは毎回異なる。
手を洗うのだって、別に潔癖なわけではなく、自分の手の中で生まれる泡の形や大きさの違いを楽しんでいた。
同じモチーフの絵を描いていても、全く同じにはならないだろう。
そうやって繰り返し行う「同じこと」の中に「違い」を見つけるのが好きだったのだと思う。
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大人になってもその精神は生きているようで、知っていることを何回でも学ぶことや、読んだ本も何度でも読むことがある。
分かっていると思うことでも、もう一度学ぼうと思うのは、正しく全てを享受している自信がないからで、何度学んでも新たな学びがあることを実感している。
読書も同様で、例えば1年間に5.6回読む本があるのだけど、何回も読むことでその作品と向かい合える気がしている。
繰り返し繰り返し読むことで、形が浮かび上がるような、いわば彫刻のような読書法だ。
そう考えると、私の強みは「飽きがこない」ことだろう。何度も繰り返し同じことをして、同じ本を読んで飽きないのかと聞かれることがあるが、これが意外と飽きていない。
何故と聞かれても困る。
だって毎回違いはあるもん、としか言えない。
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「学びて時にこれを習う また悦ばしからずや」という言葉がある。『論語』の中でも最も有名な言葉ではないだろうか。
学んだことや得た知識を機会があるたびに復習し、何度でも習い体得したいくことは、なんと喜ばしいことだろうか。
中学生くらいに初めてこの言葉を聞いた時は、私のためにあるような言葉だと思った。
そして私は学問に限らず、趣味や人付き合いに対しても同じことが言えると思っている。
ずっと趣味にしてきた書道も、最近趣味にした知恵の輪パズルも同じ。同じ字を何度書いてもいいし、知恵の輪パズルは何度でも繰り返していい。そうやって理解は深まるものだと思う。
人だってそうだ。
家族に飽きるという感覚はない。私が成長したり心境や思考の変化があるように、昨日と全く同じ自分は存在しないことは他人もきっと同じことだから。
飽きたと言わずに、もう一回。
結構大事なことだと思うのだけど。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。