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友達とコーヒードリッパー

私は友達が多くて、友達が少ない。

正確には、私を友達だと思ってくれる人は多いが、私が友達だと思っている人は少ない。

小学生の頃からそうだった。
中学も高校も大学も職場でも、私を1番仲のいい友達だと吹聴する人の中に、私が1番の友達だと言える人はほとんどいなかった。

私は、酷い人間なのだ。

誰からも好かれたい。いい人に思われたい。
だから、誰にでもいい顔をして、友達ぶって、心の奥底では友達と思っていないなんて、極悪人じゃないか。

そう思ったこともあったが、やっぱり話しかけれれば答えるし、笑ってくれたら笑い返すし、そうやって相手の思いを受け取ってお返しするだけで、皆私を友達だと呼んだ。

ギクシャクするよりよっぽどいい。それに、勝手にそう呼んでいるのだと思うことにした。

・・・

私が友達だと感じ、仲良くなる人というのは、どちらかというとタイプが違う人の方が多い。

数少ない友人を思い返してみても、私のように誰にでもいい顔をするような人はいない。むしろ嫌なことは嫌だ、無理して付き合ってあげることは考えられないと、竹を割ったようなさっぱりした性格の人が多い。

自分にはできないことをしている人だから好きということでもない。

結局人付き合いの方法とか、休日の過ごし方とか、カフェで注文するものとか、そんなことで価値観や気の合う合わないなんかはわからないのだと思う。

居心地が良い相手というのは、そういった目に見えるものではわからないはずだ。

だからといって、真逆だからいいということもない。それはそれでぶつかり合うことも多いし。私の場合は、たまたまそういう人が多かっただけのように思う。

結局、時間を重ねいつまでも居心地が良く、大切だと繰り返し思える相手が、自分にとって必要な友達なんだと思う。

・・・

あまり強い主義主張をしないのが、友達と呼ばれることが多い理由かもしれない。

ここで難しいのは、全くしないのはつまらない人だと思われる。だから、小出しに、少しずつ自分の主義主張を織り混ぜていくということが重要だ。

こんなことを言うと、戦略的にこんなことをしていると思われるだろうが、それは違う。あくまでも自分の態度を振り返り、事実そうだったという客観的な分析である。

つまり、強い主義主張を「しない」のではなく、「持っていない」というほうが正しいのだろう。

自分の考えがないわけではないけど、これまで34年間を振り返って、私は「断言」することが苦手なんだと気づいた。

そのかわり、曖昧を受け入れる能力がある。

それが今の私を私なりに分析した評価だ。

つい最近も仕事のことで悩んで、我慢できずに柄にもなくファイティングポーズをとって、絶賛後悔中の私が言うのだから間違いない。

嫌だとか嫌いとか無理だとか、そういう気持ちを言葉にすることが、本当に苦手なのだと確信した。

出来ないわけじゃないけど、したくない。

それでいいと思っていた。



しかし、それが原因で、私が友達だと思っている大切な人に、嫌な思いをさせていることを知った。

そりゃそうだ。自分の意見を言わない人間なんて、竹を割ったようなさっぱりした性格の人から見れば、イライラするのはよく理解できる。

他人に不快な思いをさせないと定評のある私が、本当の友達を不快な気持ちにさせていたらしい。


予兆だったのだろうか。

彼女と買ったコーヒードリッパーの取手が折れたのは、それを知る前日の朝のことだった。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。