都合よく見出した共通点の先には
幼い頃、父とお風呂に入っていた時のこと。
「私も大きくなったら背中の穴ポコにホクロができるの?」と聞いて、父を混乱させたことがある。
「背中の穴ポコ」というのは背中と腰の間にあるくぼみのことである。
父には背中の穴ポコのやや左寄りに、スイカの種くらいの膨らんだホクロがあった。父はそのことを知らなかったようだった。
「お父さんはこんなところにホクロがあったんかー!知らんかったわー」とやや興奮気味に驚きながら、「ホクロができる位置は人それぞれなんやで」と微笑む父の目を、またもや丸くさせた。
「じゃあなんで、母にも同じホクロがあるん?」
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実は母の背中の穴ポコにも、やはりスイカの種くらいのホクロがあったのだ。しかも位置がやや左寄りであったことも一致していた。
そのため、私の家族は背中の穴ポコにホクロが出来るのだと思い込んでいた幼い私は、そこに必然性があると勘違いをし、「家族」という集団の証のようなものに思っていた。
今でこそ笑い話だが、似たようなことは大人になってからも社会の中に散らばってはいないだろうか。
同じ映画が好きだから、きっと気が合う。
出身地が一緒のあの人と食の好みが合うだろう。
好きな有名人と父親の誕生日が同じなのは、意味があるはず。
そんな風に偶然を必然と思い込み、都合よく見出した共通点の先には、事実と異なる願いに支配されることになる。
それが「ただの願い」とも気づかずに。
***
共通点というのは、多かれ少なかれ親近感を抱かせる。そして、それが「必然」だと錯覚してしまうこともある。
お近づきになりたい。親しくなりたい。
そう思う心に、「共通点」という種が落ちると、みるみる願いの芽が出る。
このよう共通点が多いほど、芽は膨らんで花が咲き、妄想の花畑になる危険もある。
もちろん共通点が重なると、運命めいた感覚にも陥りやすいし、「何かの縁」として捉えることもできる。
ただ「ご縁があった」と捉えるか、「だからきっと〜のはず」とさらに欲張った考えに繋げるかは、共通点の捉え方で変わってくるのだと考えている。
まずは、願いの芽が出る前に見極める必要がありそうだ。
その共通点、ただの偶然ではないですか?
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