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活字で会いましょう

好きな作家がいる。

彼の翻訳作品は片っ端から読み漁り、新聞のコラム記事にもかじりついた。彼が編集している雑誌を定期購読をしていた。

ファンというのはこういうものだろう。

学生時代から彼が紡ぐ言葉が好きで、文章から見える感性に、自分にはないものを感じては心を動かしていた。

そんな彼が、私が勤めている大学の、私が所属している学部の研究協力者として招聘することになったというビッグニュースが飛び込んできた。

私はその時、学部の先生方が使用する研究費の処理などをする部署にいたので、もちろん会う可能性が高い。

そこで、私が思ったことはただ一つ。

「どうか会いませんように」

・・・

最近は「推し」という言葉が広がっているが、ファン・推しに対して、一般的には「会いたい」という感情とセットであることが多いのではないかと思う。

しかしながら、私はどうしても会いたいとは思えず、いかにして会わずに済むかを考えていた。

ツンデレをしているわけでも、あまのじゃくなわけでもない。

私は彼と活字を通して出会い、活字から彼を見ていた。そんな彼に対しての憧れと尊敬の念は全て、活字を通して私が見た像である。

だからこそ、会いたくない。
彼が実際にいて、私に話をかけ、仕事上の言葉を交わすことなど、私が好きな像を崩すことになりかねない。雲の上の存在は、その距離のまま眺めていたいのだ。

結局、私がいた執務室に何度か彼は訪れた。

担当者を呼んでほしいと受付で話す彼を薄目で見て、同じ仕事をしている同僚に代わりに出てもらった。

ファンだと知っている同僚たちからは「なんで?」と不思議がられたが、何を言われようとこの距離を守り続けた。

・・・

noteで知り合った方々の中には、コメントのやり取りを通してお会いしてみたいと思う人もいれば、この距離で見守り続けたいと思う人がいる。

違いは、その関係が双方向的か、一方的かというものではないかと思う。

コメントのやり取りや、互いに記事を読み合う人にはもっと知りたい、知ってもらいたいと思って「会いたいな」と思う人が多いのではないか。

反対にこちらが一方的に見ている人は、この関係性を壊さないように遠くから見ていたいと思う人が多いのかもしれない。

最近は投稿をしていなかったが、それでも毎日noteを覗き、皆様の投稿は見ていた。

一方的に会いに来ていました。
良い場所だなぁと思っています。



ではまた、活字で会いましょう。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。