人と場所によっては…
庭園であり公園でもある、新宿御苑へ行った。
予定を立てて行ったわけではない。友人と新宿で買い物をし、お昼を食べてお茶をして、ふと思いついて提案した。
悩んだり、迷ったり、モヤモヤを抱えると、自然に触れたくなるし、一緒に行った友人には緑の中を歩くことが必要な気がしたからだ。
ただ緑を見て、芝生に座り、ボーッとしているだけで気持ちがいい。深呼吸をして、新鮮な酸素を取り入れている感じもたまらない。
なんと言っても、寝っ転がって空を見ていると、なんだかすごく幸せな時間のようにも思えてくる。
子どもの頃、近所の公園でも出来ていたことだけど、大人になると芝生に寝そべるというのは些かハードルが高いことだ。
それを、人目を気にせずできるというだけで、とっても気分が良かった。
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私はどちらかというと、早く大人になりたい子どもだった。
友人の中には「大人になりたくない」という考えの子もいたけれど、大人になったらいろんなことができるようになるものだと思っていたから、子どもの頃に不満があったわけではないが、私は大人というものが魅力的に見えていた。
実際に大人と呼ばれる年齢になり、もちろん出来るようになったこともたくさんある。
書道だって子どもの頃よりずっとずっと上手に書けるようになったし、料理だって人に食べさせても大丈夫なくらいには上達した。
一人暮らしだって、夜のお出かけだってできる。
でもやっぱり、子どもにしかできないこともある。
そしてそのほとんどが、「大人になると出来ない」というよりは「大人になるとするのがとても難しい」ということだ。
やろうと思えばできるけど、人の目が気になったり、理性や建前に制御されたり。
私は、学校帰りに公園へ寄り道をして、木に登り、木の上でリコーダーを練習するのが好きだったけど、今同じことをやったら間違いなく変な人だと思われてしまう。
まぁ、そんな願望ももうないけれど。
弱音を吐くことも、文句を言うことも、寂しい時に寂しいと言うことも、ただ思いを言葉にするだけでも、勇気が必要だったりする。
ありがとうが素直に言えなくなることもある。
ただ、それが許される場というのも必ずある。
例えば自分の家の庭に木があったら、どれだけ登っても、木の上でリコーダーを吹いても、誰に何を言われることもない。
近所の公園で寝そべっていたら指を指されるかもしれないけれど、新宿御苑のような芝生のある大きな公園では、子どもも大人も当たり前のように芝生に座ってご飯を食べたり寝そべったり。
弱音だって愚痴だって、人と場所によっては言ってもいいのだ。
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豊臣秀吉の天下の時代に、徳川家康が江戸の町づくりを進めるにあたり、甲州街道と鎌倉街道が行き交う地点に陣を置いて警備を固めていた内藤氏という人がいる。長く家康に仕えていた人だ。
内藤氏はこのことが高く評価され、その一帯に屋敷を構え、甲州街道の宿駅として「内藤新宿」が設けられた。
宿場町というよりは、江戸の町中に入る前に旅人が身なりを整え、馬を休める休憩所の役割だったらしい。
その場所こそ、新宿御苑である。
何かに疲れて休みたい時、これから頑張らねばと気合を入れる時に行く場所として、江戸時代以前から続いていたと思うと不思議な感覚だ。
私は今でも似たような目的で行っているので、とてもありがたい場所のように感じる。
入園料が上がったことで文句をいっちゃいけないなと思うのでした。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。