見出し画像

5月8日

朝から遠隔授業を受けて、次の授業までの空き時間にエクササイズをして風呂に入った。家にいるからこそできることだ。どの授業もまだ手探りで、パワポダウンロード形式で送られてきたので一時停止が出来ず板書が間に合わなかったり、授業開始時間を大幅に過ぎても授業資料が閲覧出来ず授業時間内に授業をすることが出来なかったりした。対面授業だとある程度の匿名性(顔だけでは誰かわからないので)を保ち、授業に対する質問や要望が出来ていたのが、遠隔授業になることで「学籍番号○○の何々というものですが」と名乗りを上げなくてはならなくなった。ばんばん質問や指摘をするタイプなので、少し怖い。

授業で同性婚について考えるという課題があった。同性婚を認める法律を作ると、日本国憲法第二十四条一項「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、…」に反することになるのか、というものだ。
問題となるのは、「両性の合意」の部分だ。両性は一般に男性と女性のことを示すが、「両性」は優しく言うと「ふたつの性」のことなので、「固有の性を持つ二人」と解釈できないこともないのではないか、と言葉遊びのようなことを考えたところで、ネットで検索してみた。
論点:日本国憲法は同性婚を禁止しているのか?」と「100年前の日本人が全員結婚できた理由」を見ると、面白い考え方が載っていた。日本国憲法第二十四条の制定経緯を理解すると、同性婚を禁止するためにこのような文言を作ったのではないことがわかるという。戦前の日本は、封建的な家父長制度を採用していて、結婚というものは両当事者の意思だけでは出来ず、家と家という二つの共同体を結びつけるものとして機能していた。この家父長制度を否定し、両当事者の合意のみで婚姻できるように、戦後日本国憲法を起草したのです。当時の時代を考えると、同性愛が公の場で議論されることはほとんどなく、起草者たちもおそらく同性愛者の存在を想定していなかったので、同性婚を禁止するために「両性」という言葉を使ったとは考えにくいという。
起草時の時代背景や状況を考慮して法解釈をするとは、自分では思いつかなかった。奥が深い。
何はともあれ、同性婚は今すぐにでも法律で認めるべきだと思う。

夕方、授業トラブルで空いた時間でまたフランス映画を観た。「エアポート」と「ドラゴンの最期」、二つとも短編映画だ。「ドラゴンの最期」は、脳死状態の母の延命装置が十日後に外されると決まり、三人の兄妹が施設に宿泊することになる話だ。母に複雑な想いを抱いていて取り乱してしまうマリアンヌ、最期のための準備を完璧に整える妊婦のアンジェル、とにかく穏便に済ませようと努めるミカエル。母親の姿は映されることなく、物語は進んでいく。劇中でマリアンヌがあの歌なんだっけ、と母に贈るための詩を思い出そうとするシーンがある。ブレルの、馬が水を飲んでいる...。後半でミカエルによってその歌が思い出される。

馬は水を飲み
私は馬を見ている
のどの渇きは悟らせまい
海が魔力を 失うことがある
その時 海は歌っている
子供の本には載っていない歌を

こう歌って、マリアンヌは「当然ね」とつぶやく。なぜそう言ったのか、観終わったあとでこの歌を見つけ出してわかった。シャンソン歌手Jacques Brelの「La ville s'endormait」という歌で、劇中で歌われた部分の後にこういう歌詞が続く

しかし女たちは
女たちにしか似ていない
なかでも愚かな女たちは
愚かな女たちにしか似ていない

ミカエルがブレルの歌を諳んじはじめる前、マリアンヌはミカエルにこう聞いている。「私 母さんに似てきた?」
この言葉にされなかった歌詞の部分を指して、マリアンヌは「当然ね」と言ったのだ。母のような女にはなるまいと生きてきたが、いつのまにか母のようになっていることに気づき、「愚かな女たちは愚かな女たちにしか似ていない」と諦念のようなものを抱いたのだろうか。
歌詞に惹かれて、全体はどんな歌詞なのだろうと調べ始め、なかなか見つけられず半ば意地になって特定したが、この歌を知って映画を観るのと知らずに観るのでは、また違ってくるように思う。こういう時、昔の人はどうやってこういうものを調べたのだろうと思いを馳せる。携帯で簡単に検索できる時代に生まれてよかった。

30-day song challenge 26日目は、
"A song that makes you want fall in love"
あいみょんの「愛を伝えたいだとか」を挙げる。人恋しい時に、ロングヘアーの素敵な女の子に教えてもらった曲。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?